2016年2月29日月曜日

「工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行」

金融工学が不遇の筑波大学助教授時代に、米国パーデュー大学で4ヶ月ほどビジネススクールで数理最適化を教えたときの見聞をまとめた本。

ビジネススクールをアメリカの象徴として捉え、アメリカの競争社会、パーティー文化、日本での研究生活との対比などを絡め、かつて憧れたアメリカとの関係をある意味で清算する、というような筋だ。

著者はちょうど私の父の世代にあたる。昭和15年に生まれ、60年安保闘争を学部で経験し、修士課程を経て電力中央研究所に入る。若手研究員として、日銀にいた斎藤精一郎、大蔵省にいた野口悠紀雄とともに『21世紀の日本: 十倍経済社会と人間』という論文を書き、政府主催の懸賞論文で優勝する。1968年のことだ。この時期とタイトルからわかるとおり、著者は日本の高度成長とともに生きた。それはアメリカに滅ぼされた旧日本を取り戻す過程であり、何らかの意味でアメリカという巨大な存在に対して自分を知らしめる戦いでもあった。

しかしながら、著者の軽妙な筆致にも関わらず、時代と世代のあまりの遠さに、物悲しさを感ぜずにはいられない。同様の戦いの歴史をつづった盛田昭夫の自伝同様、それが疾風怒濤のある種の成功譚であればあるほど、現時点での我々の暗黒とのコントラストが際立つ気がするのである。

これはこういうことだ。2016年今現役の我々には、日米の二項対立というのは意味がほとんどない。日本側から見ればアメリカは依然として巨大であるが、その関係は10年前と劇的に変化している。つい最近まで、日本はアメリカにとって、非軍事領域で最も存在感のある相手であった。かつてアメリカが得意としたあらゆる先端領域において、日本は世界市場で非常に強い存在感を持ち、仮に日本が政治的に inscrutable であったとしても、むしそろれがゆえに、日本は何か調べる対象、関心の対象として、アメリカの知識階級の頭の片隅にいつもとどまっている存在であった。

しかしそのような日本はもうない。アメリカのメディアには日本が出ることはほとんどない。我が心のアメリカの変遷をいくら熱く語ったところで、それはちょうど、マレーシアにおいて論ぜられる日本論に日本人がほとんど興味を持たないのと同様、アメリカにとってはほとんど意味がない。かつて日本が意味ある存在である時には、日米二つの価値観の内なる相克の歴史は存在価値を持ちえた。しかし今はそうではない。著者ら団塊の世代には、彼らの語る国際関係論、文化論のほとんどが、元の時代的背景を失った結果、空疎な独り言に堕してしまっているという事実を理解してほしい。

工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行 [Kindle版]

  • 今野 浩 (著), 藤牧 秀健 (監修)
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 1028 KB
  • 紙の本の長さ: 128 ページ
  • 出版社: 新潮社 (2013/5/17)
  • 言語: 日本語
  • ASIN: B00FYJFVPQ

2016年1月31日日曜日

「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」

「羅南」という街 (現在の北朝鮮・咸鏡北道清津市)で裕福に暮らしていた一家が、悲惨な引き揚げを経てかろうじて姉と生き延び、生き別れとなっていた兄と日本で奇跡的に再開するまでを小説風に描いた物語。

私が読んだのは原著の英語版の方である。終戦間際の混乱で、父と兄とはぐれた母子3人は、"Korean Communist Army"と本書の中で呼ばれている朝鮮人武装集団の襲撃から何とか逃れつつ、途中まで列車で、その後徒歩で38度線南側のソウルを目指す。主人公は、”Little one”こと11歳のヨーコである。藤原てい『流れる星は生きている』をはじめとして何冊か引き揚げ系の本は読んだのだが、"Korean Communist Army" に該当する単語を見た記憶はなく、興味を引かれた。

満州および朝鮮において、日本の敗戦と同時に難民となり、日本に引き揚げて来た人々の多くの証言が平和祈念展示資料館というところでまとめられている。非常に多くの引揚者が恐怖とともに回想しているのがソ連兵による略奪・暴行だ。混乱の中でいくつかの証言には事実誤認もあるかもしれないが、これは歴史的事実として認定してよいだろう。

回想記によれば、ソ連兵と並び恐怖の対象だったのが、「保安隊」と呼ばれる集団である。調べると、まさにこれが本書の主人公である川嶋一家を恐怖に陥れた朝鮮人の武装集団なのであった。今でこそ北朝鮮政府は、あたかも自分たちが戦勝国であるかのように抗日戦争の勝利を喧伝しているが、彼らには日本軍に組織的抵抗を行うだけの実態はなかった。彼らはただの私兵集団であり、日本敗戦後、日本人からの略奪により肥大化し、そうして現在の北朝鮮警察の元になった、というのが自然な理解である。その成り立ちからして、初期のソ連兵同様、彼らに規律を求めても無駄だったろう。

日本の出版業界では、かつての拉致問題がそうだったように、朝鮮人による犯罪を明示的に指摘するのは長い間困難であった。「保安隊」というのはある意味婉曲表現である。その結果、あたかもソ連兵のみが乱暴だったような記憶が日本には残っているが、それは事実と違う(言葉が文献に残されると、そのまま歴史になってしまう好例である)。作中、保安隊こと Korean Communist Armyは、ソ連製のマンドリン銃と思しき銃で武装し、日本人相手に(朝鮮人同士ですらも)陵辱の限りを尽くす。

かといって朝鮮人をひたすら鬼のように描いているわけではなく、元々仲良く暮らしていたLee一家との思い出、ヨーコの兄を助けた朝鮮人家族、逆に、冷酷な住職や詐欺まがいの取引を持ちかける日本人、帰国後ヨーコを悩ませた女学校でのいじめなど、日本人のいやな一面も描かれている。

現在の日本では、引き揚げの辛苦を語ることは倫理的に間違ったことだと思われている。「侵略」をしたのだから、侵略者は殺されても仕方ない、という論理だ。興味深いことに、人権派と呼ばれる人にその傾向が強い。しかし、非戦闘員が陵辱にさらされることを正当化する法は、当時も今も何もない。彼らは国際法上の難民である。現在の世界でも、難民はいたるところに発生している。2015年のシリア危機は記憶に新しい。国を追われる人々にはそれぞれ理由がある。国籍がゆえに排斥を受ける人もあれば、宗教がゆえに排斥を受ける人もいる。どちらにしても、そういう、個人とは無関係な政治的な理由により、難民に対する殺人や略奪を「仕方がなかった」と正当化するのは、現在ボコ・ハラムがやっているテロ行為を正当化するのと変わりがない。

ある統計によれば、満州などソ連占領地区にいた百万人以上の日本人のうち、およそ1/4の人たちが引き揚げの過程で犠牲になったという。過大な数字にも思えるが、常識的な言葉で言えば、戦争により発生した難民という立場の弱い人たちに、かさにかかって略奪の限りを尽くした恥ずべき人たちが、中国と朝鮮には大量にいた、ということである。

著者はアメリカで、韓国人集団の攻撃にさらされているようであるが、政治レベルでの判断の誤りと、個人のレベルでの犯罪を混同しないだけの判断力を身につけたい。


So Far from the Bamboo Grove [Kindle版]
  • Yoko Kawashima Watkins
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 1045 KB
  • 紙の本の長さ: 196 ページ
  • 出版社: HarperCollins; 1st Beech Tree ed版 (2014/6/24)
  • 言語: 英語
  • ASIN: B00JOGB0QE

竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記
  • 著者: ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ
  • ハードカバー: 236ページ
  • 出版社: ハート出版 (2013/7/11)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4892959219
  • ISBN-13: 978-4892959219
  • 発売日: 2013/7/11
  • 商品パッケージの寸法: 18.5 x 13 x 2 cm

2016年1月24日日曜日

「芸能人はなぜ干されるのか」

芸能人が「干される」という現象について、豊富な実例とていねいな取材で実証的に論じた本。

題名からしてトンデモ本かと思いきや、硬派なルポルタージュといったほうがよい。常に何らかの文献か取材に基づき、芸能記事にありがちな憶測記事を極力廃している。著者は相当リテラシーの高い方のようで、ハリウッドや韓国での事情はもちろん、法律・行政面での事実の確認も抜かりない。さらに、紹介される事例も豊富かつ興味深いものばかりだ。私が子どもの頃、女の子に人気があった田原俊彦がなぜ急に消えたのか、一時期話題になった北野誠事件が何だったのか、よくうわさされるジャニーズ事務所での性的虐待は本当なのかなど、初めて合点がいったことが多数ある。

なぜこの本を読もうかと思ったかと言えば、最近Youtubeでも流れたSMAPの謝罪生放送というやつがさっぱり理解できなかったからである。「お騒がせしてすみません」という(日本以外では説明が難しい)論理はわかるのだが、それ以上のことは何一つわからない。草剪氏の言によれば、事務所オーナーが怒っていて、その人に謝るというのがどうやら趣旨のようだが、そうだとすればテレビでやる必要は何もない。これは業界向け、他事務所に宛てた警告なのかもしれない。しかしタレントにそんなことをさせるメリットは素人目にはわからない。


と、思って探してみると、なんと、この騒動の発端となった内紛が当事者へのインタビュー記事として読めるのであった。メリー喜多川という事務所のトップの行状はすごい。飯島というSMAPのマネージャーをいきなりインタビューの現場に呼びつけ、記者の面前で罵倒しつつ、あんたはなってない、自分の娘を後継にするとの趣旨の宣言。この非常識きわまる暴君ぶりは一体何なのか。

ひとつの説明は、メリー喜多川氏が加齢によりやや正常な判断力を失っているというものだ。感情の起伏が制御不能なほど激しくなるというのは、痴呆の前駆症状としてよくあるようだ。もうひとつの説明は、冒頭の本で詳細に述べられているような芸能界の特殊な労働慣行があるというものだ。おそらくその両方なのだろう。

これらの本を読むと、芸能界がいかに封建的な人間関係で支配されているかがよくわかる。メディアが巨大産業になってもなお、かつての五社協定のような状況は変わっていない。五社協定は、早くも1950年代には人権擁護局および公正取引委員会から違法行為との指摘を受けている。基本的人権の観点でも、独占禁止法の観点でも、違法なのである。世の中には確かに必要悪というものはあろう。しかし公正な市場競争を妨げた結果、作品の質の低下に歯止めがかからず、大衆から見放され映画界は斜陽化した。協定を作った5社のうち2社は倒産し、後で参加した日活はポルノ映画の会社となった。最近はテレビ離れの傾向にも歯止めがかからない。これらはすべて、カルテルによりイノベーションを拒否した業界の末期的な症状である。

日本のメディア、エンターテイメント業界の、とりわけアメリカと比べたときの特徴は、その専門性の低さである。大統領選挙で誰を支持するかについて女優が意見を述べるような文化は日本にはない。かといって、メディアを動かす側の知的能力も低いので、本書の冒頭にメディア関係者の話として挙げられているように、何か正義(あるいは単に経済原理)のために動くというような行動原理は期待できず、「偉い人に媚びる」というただただ現状維持の行動原理がまかり通っている。そこにはイノベーションが生まれるはずもない。これは停滞に苦しむ日本の縮図といえよう。彼らは醜い守旧派勢力であり、自分の国の衰退を推し進める害虫のようなものだ。

本書には賎業として始まった芸能界の歴史的経緯にも触れられている。私はそのような蔑視にはまったく与しないが、そのような歴史経緯とは完全に無関係な意味において、今の彼らがやっていることは、文字通り賎業と言えよう。

芸能人はなぜ干されるのか?: 芸能界独占禁止法違反 [Kindle版]

  • 星野 陽平 (著)
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 4168 KB
  • 紙の本の長さ: 301 ページ
  • 出版社: 鹿砦社 (2015/9/24)
  • 言語: 日本語
  • ASIN: B015T56TF0