2015年11月29日日曜日

『オレたちバブル入行組』

今さら紹介するまでもなく、TVドラマ『半沢直樹』の原作。銀行支店長と結託したある会社の偽装倒産。半沢はその倒産に伴う融資の焦げ付きの責任を取らされそうになり、社内の理不尽と戦う。

著者は財務のビジネス書の著作もあるだけに、銀行の実務に詳しく、筋書きは非常によくできている。この小説の成功は話のリアリティによるところが大きい。実世界ではめったなことでは人は死なないし、職場で怒鳴り声を上げたり泣き喚いたりというのも日常の光景にはない。日々淡々と時は過ぎ、しかしその淡々とした現実の中に、実は無数のドラマが埋まっている。

客観的に見れば、焦げ付いた融資の処理は、銀行において無数にあるであろう淡々とした出来事のひとつである。淡々とした現実をただ淡々と受け流しているだけではドラマにならない。一方、作り事が作り事である限り、そこにドラマは生じない。逆説的であるが、基本的には作り事に他ならない小説がドラマになるのは、我々の何かの現実に肉薄した時である。いわば作り事から現実のドラマを生み出すのが芸術家の腕である。

さて、実は書きたいことはそれではなく、この小説の随所に現れる横並びの相対比較的価値観についてであった。小説の舞台となる銀行の中では、入社何年でどの役職にあり、どの程度の給料で、というような価値尺度が唯一無二のものとして確立している。価値尺度がひとつしかないがゆえに、同期入社の社員に明確な序列をつけることが可能である。同期入社の中での昇進の早さはほとんど人間の価値と同一である。その単線的ラットレースの最終地点に来るのが役員就任か出向かの分岐で、そのレースを支えるのは言うまでもなく年功序列の雇用制度である。専門性により自分を売る、というような「現代的な」勤務形態はどこにもなく、ひたすら社内政治の寝技で誰を蹴落とすか。市場の要請の優先順位は信じられないほど低い。

これは銀行において、果たして今でも通用する価値観なのだろうか。本書の続編というべき『ロスジェネの逆襲』においては、就職氷河期にかろうじて銀行子会社の証券会社に就職できた若者が出てくる。しかし変わったのは単に採用の門戸の狭さだけで、銀行内部の単線的価値観に変化がないように見える。言うまでもなく、子会社での採用はその時点で負け組である。 

江戸時代の身分制度でもあるまいし、そもそも親会社の頭取を筆頭にする単線的な価値の座標軸が存在していること自体が不合理である。資本関係において子会社であっても、会社に多大な利潤を与える社員は親会社の平凡な社員より高給で雇われてもよい。そのようないわゆる職務給の考え方は、必然的に、価値観の多様化をもたらす。誰が勝ち組で負け組かは、地位により決まるのではなく、本人のスキルの価値と、そのスキルと職務の適合度でおおむね決まる。性別や国籍、入社年度や年齢に関わらず、会社が必要としているスキルをより高いレベルで持つ人間が高給で遇される。これはある意味、古来人々が追求していた人道主義の理想であるとすら言える。否、人道主義かどうかはある意味どうでもよく、その価値観に基づく人事制度が、市場で生き残るための最適な人材活用施策となっているということの方が社会的には重要である。

銀行が市場の要求と必ずしも適合しない不合理な人事制度を堅持してきた背景には、護送船団方式と言われる非資本主義的な競争環境にあった。この小説が社会的大ヒットになった事実は、バブル経済の崩壊の後もなお、国際的市場競争のプレイヤーになれない企業や従業員が、この国にまだ途方もなく多く存在しているという悲しい現実を示している。

オレたちバブル入行組(文春文庫)

  • 池井戸 潤 (著) 
  • 文庫: 368ページ
  • 出版社: 文藝春秋
  • 言語: 日本語 
  • ISBN-10: 4167728028 
  • ISBN-13: 978-4167728021 
  • 発売日: 2007/12/6