2014年3月31日月曜日

「遠い日の戦争」

戦時中陸軍中尉としてB29搭乗員の処刑に関与し、占領軍の追及から逃げた男の心理を描いた小説。吉村昭のほかの小説同様、劇場風の大げさな描写は何もなく、淡々と心理がつづられる。

西部軍司令部司令部付・防空作戦室情報主任であった陸軍中尉白坂琢也は、玉音放送を聴いた直後、書類の焼却を命ぜられる。と同時に、以前、非戦闘員への殺戮行為という罪状により軍法会議で死刑を宣告されたB29の搭乗員への対応を迫られる。B29搭乗員は、日本軍迎撃隊により撃墜され、パラシュート降下したのである。B29は市民の憎悪の的であり、軍はかろうじて民衆の暴力から彼らを守り、留置したのであった。

詳細な尋問から、彼らが組織的に非戦闘員の殺傷を行っていることは明白であった。民間人への意図的な殺戮を行った者は、当時の戦時国際法によれば、戦時捕虜としての保護の対象にならない。それは軍服を捨てて群集に隠れつつゲリラ的攻撃を仕掛けた南京攻防戦での中国兵が、その場で処刑されても仕方なかったのと同様である。 軍は国際法に基づき、B29搭乗員に死刑の判決を下した。

白坂琢也は、灰燼に帰した博多の街を目前にし、また、新型爆弾を使用し都市全体を消滅させる攻撃に、強い憤りを感じた。
中小都市への焼夷攻撃に加えて、市民の殺傷のみを目的に新型爆弾まで投下したアメリカ軍の行為は、理解の範囲を超えたものであった。その後、伝えられる新型爆弾による広島市の被害状況に、琢也は、アメリカ軍がすでに日本人を人間の集団として認めていないことを感じた。...それは、野鼠の群れを一時に焼殺する駆除方法にも等しいものに思えた。

玉音放送後の残務処理において、すでに死刑判決を受けた彼らを処断することは自然なことであり、それをどう実行するかは責任機関に一任されている。琢也は実行した。

それが彼の長い逃避行の始まりであった。士官仲間から米軍の追及を聞かされた琢也は、旧軍で要職にあった伯父を訪ねるが、「旧軍人らしく逃げるなどということはせず、出る所へ出て白黒をつけろ」などと突き放され落胆する。軍関係の知人は彼を歓迎せず、人づてに姫路のマッチ工場に落ち着く。

その過程で、いかに人々が無責任に、強者に阿るかのように価値を転換させていることを知る。A級戦犯の起訴を伝える新聞には、「戦犯はまさしく人類の敵であり、憎みても余りある暴力の野獣である」とまであった。

琢也は姫路になじみ、工場主の信頼を得る。安定した生活を手に入れた彼は、ふと募った郷里への思いを胸に、その工場の名で挨拶の年賀状を実家に出す。追われる身としては、名を書かずとも、筆跡から事情を察することを期待したのである。結果的にそれが仇となり、彼は占領軍に連行され、裁判を受ける。彼は終身刑となったが、その後の占領政策の変更により、9年の後に釈放される。彼は思う。
裁判の本質は、法律の忠実な履行によって成立するもので、判決は厳正な最終結果であるはずだが、戦争犯罪裁判は国際情勢に著しい影響を受け、その折々の判決にも軽重の差が余りにも大きく、しかも決定した刑も短期間のうちに減刑されている。それは、戦争犯罪裁判に、その起訴となるべき法律というものが存在せず、裁く者たちの気ままな意志によって判決が下されたことをしめしている。琢也は、...、戦争犯罪人に対する裁判は、裁判とは無縁の私刑に近いものであることを感じた。

彼は、弟からの手紙で、その後郷里の空気が一変し、むしろ戦犯を被害者として気の毒がり、役所から非公式に慰問の品さえ届けられたことを知る。7,8年前、新聞は自分たちを「暴力の野獣」と指弾した。しかしそれがいまや悲劇の主人公なのである。それに彼は怒る。

この小説の主人公の悲劇は、心の中に価値の絶対軸を持っていたことであった。人間は2種類に分けられる。価値の絶対軸を持つ人間と持たぬ人間である。それは絶対音感に似て、それを持たぬ者には想像すらできないが、持つものにとっては強い感情をしばしば巻き起こす。価値の軸を持たぬ人間は、ことが起こるたびに強者の価値の上に座標を置き直すことに何の躊躇も感じない。何か問題が起こると、「自分はあの時、実は左様に懸念していたのだ」などと態度を変える輩は珍しくない。彼・彼女としては、それがむしろ良心の証であると信じており、それがゆえ対立はむしろ悲劇というよりも喜劇的になる。

価値の絶対軸を心に確立できぬ輩は人間として未熟である。郷里からの手紙を破り捨てたこの小説の主人公の苛立ちは、未熟さをそれとして理解できぬ人々との間の、暗黒の断絶に由来している。

読む価値のある名作。


遠い日の戦争  [Kindle版]
  • 吉村昭 (著) 
  • フォーマット: Kindle版 
  • ファイルサイズ: 399 KB 
  • 紙の本の長さ: 150 ページ 
  • 出版社: 新潮社 (2013/6/13) 
  • 販売: Amazon Services International, Inc. 
  • 言語: 日本語 
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2014年3月1日土曜日

「桶川ストーカー殺人事件 ── 遺言」

ストーカー防止法の元になった有名な事件の取材録。並の取材録ではない。警察がまるで動かない中、当時Focus誌の記者だった著者が自らの情報網を使い犯人に肉薄、虚偽報道に心を痛める被害者家族・友人の信頼を得つつ、最終的に犯人を追い詰めるまでの生生しい記録だ。私はもちろんこの事件を知っていたが、恥ずかしながらこの記者の取材記録については何も知らなかった。驚いた。一気に読んだ。大げさに言えばこれは、日本経済の成長の足を引っ張る非競争的セクターの病理の典型事例であり、組織の生産性を上げるために何をすべきかについての格好の反面教師となっている。冗長な著者の文章スタイルを差し引いても、現代インテリゲンチャ必読の書だと思う。

この事件自体は有名なので繰り返さない。 著者が指摘する問題は2つだ。まずはまったくやる気のない上尾署という組織。それに対し何の監視能力も持たない記者クラブ所属のマスコミ。 上尾署の独特の空気は記者会見からもよく伝わる。



一方、事件発生後、事実と異なる報道を大量に垂れ流した記者側の論理はこうだ。

 「僕らは事件記者じゃないんです。警察に詰める警察記者なんですよ」 わかりやすい話だった。警察詰め記者イコール事件記者ではないのだ。そうか、彼らはあくまで警察を担当している記者なんだ。だから警察発表を記事にしていくのは何ら不思議ではないのか...。 私が取材で求めているものと、警察に詰める記者達や新聞社が求めているものは似ていて違うのだ。私は事件を取材する。だから事件記者。彼らは警察を取材する。だから警察記者。(「第6章 成果」) 

結果論からすれば、彼らは人の心を持たぬ鬼のように思える。しかし単にそう断罪するだけでは何も進まない。彼らの行動を支えた論理について想像力を働かせ、反面教師として未来につなげるべきだ。

おそらく、警察も記者クラブ記者も、業務において量の上で大半を占める日常のルーティンワークが、いつしか価値の上でも最上位に来ると考えるようになったのだろう。そもそも何のために業務があるかを忘れ、単に目前の業務を右から左に流す。そうなると、日常の定型的な事務処理から外れる捜査とか取材とか、そういうものはただの面倒、さらにはむしろ存在すべきでない悪に見えてくる。

この連鎖を断つ鍵は、組織自体の目的を、個々の業務といかにつなげるかという点にある。少なくとも経済原則から言えば、警察は、究極的には、納税者にサービスを提供する組織である。一部の人権を暴力的に制限することで、最大多数の最大幸福を目指すという意味で、高度な倫理観と使命感が要求される。マスメディアも非常によく似ている。彼らは第一義的には、新聞購読者や、スポンサー企業およびその顧客に、情報サービスを提供するのが目的となる。事件報道の場合、一部の人権を制限することで最大多数の最大幸福を目指す。

 要するに、誰が「お客様」なのかという点さえ覚えておけば、日常業務における価値の転倒が起こることはないのだが、日常的に市場での競争にさらされていない彼らには、それを考える動機などないのだろう。自発的にそれが起こりえないのだとしたら、上位の目的を下位の業務と関連付けるために、組織の長の強力なリーダーシップを期待したいところだが、それもまた望み薄なのだろう。 

この最悪の事件が、ある意味業務に忠実な、真面目な人たちによる、真面目な業務への専念により引き起こされたということは銘記しておきたい。


桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)
  • 清水潔 (著)
  •  フォーマット: Kindle版 
  • ファイルサイズ: 1536 KB 
  • 出版社: 新潮社 (2013/5/24) 
  • 販売: Amazon Services International, Inc. 
  • 言語: 日本語 
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