2010年1月10日日曜日

「『金融工学』は何をしてきたのか」


金融工学およびオペレーションズ・リサーチの権威で、多くの教科書のほか『カーマーカー特許とソフトウェア ── 数学は特許になるか』や、『役に立つ一次式 ── 整数計画法「気まぐれな王女」の50年』などの一般向け啓蒙書でもよく知られた今野教授の最新刊。題名から知れる通り、昨今の金融工学悪玉論に反論する、というのが主題であるが、弁明の書というよりは、金融工学そのものの概説書と考えた方がいい。技術的な堅い話に、広い読者の興味を引くような面白エピソードを交えて軽快に語る著者の筆力は確かで、金融工学そのものの概説を「理系風」なスタイルで直接試みた同著者の『金融工学の挑戦』よりも、物語としての読みやすさは増しているように思う。その意味で万人に広く勧めたい。

リーマンショック以後、いわゆるヘッジファンドに象徴されるような、金融工学を駆使した金儲けへの風当たりが強い。今野教授は、経済学の大御所・故サミュエルソン教授が2008年に朝日新聞記者に語ったとされる言葉
「世界経済を破滅の淵に追い込んだ金融ビジネスの不始末の元凶は、米国金融当局の規制緩和と、悪魔的・フランケンシュタイン的金融工学だ」(p.71)
に答える形で、批判されるべきは強欲な人たちの跳梁を放置したシステムであって、金融工学そのものではないと訴える。

上記インタビューに関して、今野教授は記者の誘導もしくは牽強付会があったのではないかと疑っているようだが、大衆向けメディアが反知性主義的なポーズを取ることはよくあることなので、仮にそうだとしても別に驚かない。むしろ私には、研究を生業にするはずの同僚エンジニアから、サブプライムローン問題に関係して、だから金融工学はダメだ(「人間的な」新しいアプローチが必要だ)、と聞かされた時の方が驚きであった。そうして初めて問題の深刻さを認識したのである。

冒頭の第1章で著者は、金融に関するリスクとして次の4つを挙げる。
  • 市場リスク
    株価などの商品価格の変動に関するリスク。いわゆるポートフォリオ理論の守備範囲で、半世紀以上にわたる歴史がある。
  • 信用リスク
    「貸したお金が予定通りに戻ってこないことに伴うリスク」(p.34)。金利の決め方に直接関係する。理論はまだ発展途上。
  • 業務リスク(Operational risk)
    「業務が適正に遂行されないことに伴うリスク」。ATM不具合など。通常の金融工学の守備範囲外。
  • 流動性リスク
    「市場で正常な取引ができなくなることに伴うリスク」。研究はまったく未成熟。
上記から明らかなように、ひと言で言えば、サブプライムローンの破綻は、信頼に足る信用リスクの見積もりがなかったためである。本書第5章では、証券化した住宅ローンの信用リスクの定量的評価が非常に難しいことをまず指摘する。

私がこの商品についで抱いた疑問は、どの程度正確にリスクを推計することができるのか、という点である。デフォルト・リスクは、"連鎖倒産"を無視したうえで、経済情勢に大きな変化がないものと仮定すれば、ある程度推計可能である。難しいのは、満期前繰上返済リスクの計算である。これには、金利水準、経済情勢、雇用状態などが絡んでくるからである。一年先でも難しいのに、30年も先のことまで考えなくてはならないのだから、専門家でなくても、この作業が容易ならざるものであることがわかるはずだ。(p.149)
そうして、「では格付け会社は、このような作業をきちんとやっているのだろうか」と問いかける。格付けをどうやるかは会社ごとに企業秘密とされていて、詳細は不明であるとしながらも、アート(主観)に負う部分が大きいに違いないと述べる。
さて、格付け会社は、住宅ローン担保証券の格付けを請負っているわけだが、その作業は企業の格付けよりずっと難しい。科学には手間がかかるが、アートなら手抜きができる。そしで手抜きの結果が、発行側 ── 銀行と証券会社 ── に有利な結果をもたらすことは眼に見えている。(p.151)

結局問題は、金融工学そのものにあるのではないことは明らかだ。むしろ金融工学の非適用に問題があったとすら言える。「今回の危機は、リスク計量技術(金融技術)が未成熟な段階でこの種の商品が大量に販売され、欲張りな投資家がこれに群がったために生み出されたものである」(p.192)。

それにしても、金融工学が災厄の元か否か、というような立論は、核兵器と物理学、あるいは公害と科学技術、のようなテーマで何度も何度も繰り返されてきたはずのことである。たとえば原子爆弾の悲劇が、相対性理論と量子力学という、成立間もない20世紀の新理論が存在しなければ起こりえなかったことは確かである。ならば、あらゆる物理学文献を焚書にし、あらゆる物理学者を獄につなげば問題は解決するのだろうか。金融工学をめぐる最近の反知性主義的な言説にも同様の愚かさがあるように思える。無教養と思われたくなければ、よく考えてから発言することである。


「金融工学」は何をしてきたのか(日経プレミアシリーズ)
  • 今野 浩 (著)
  • 新書: 208ページ
  • 出版社: 日本経済新聞出版社 (2009/10/9)
  • ISBN-10: 4532260604
  • ISBN-13: 978-4532260606
  • 発売日: 2009/10/9

2010年1月8日金曜日

「金融工学の挑戦 ― テクノコマース化するビジネス」


金融工学という学問分野の成立史と、金融工学の基礎を解説した本。期待値とか分散とかの用語がわかる程度の統計学の基礎知識が必要だが、それさえあれば、マーコビッツ理論CAPMブラック=ショールズ理論、などの基本概念がとてもよく理解できる。仮に専門的な金融工学研究に興味がなくても、金融工学のスターたちの面白エピソードも随所に織り込まれており、読み物としても面白い。サブプライムローンの破綻とそれに基づく大不況のはるか前に出版された本であるが、住宅ローンの証券化とそのリスクについて詳細に説明している点も特筆に値しよう。金融工学入門、というカテゴリの本ではもっともよくできた本である。

先日取り上げた勝間和代氏の『お金は銀行に預けるな』は、マルキールの古典・『ウォール街のランダム・ウォーカー 株式投資の不滅の真理』そのままに、「インデックスに投資せよ」と教える。勝間氏の本の想定読者は一般大衆であり、一般大衆に向けとしては正しいメッセージであろう。素人株式投資よりもはるかに期待リターンが多いと思われるからである。

一方本書は、一般大衆というよりは、金融工学を使いたい、もしくは、研究したい人向けである。そうなると、理論そのものの説明と、それに付随する数式は避けられないし、それを省略することなく説明を試みている本書には、他の似非入門書にはない価値がある。

国の行く末を憂う著者の熱い思いが行間からにじみ出ている点も類書にはない特色である。たとえば第3章「資産運用理論」は、古典理論としての平均・分散モデルとCAPM理論、そしてそれらの限界を説明する章なのだが、分散投資は必要だよね、と語りかける冒頭部分に、さりげなく次のような指摘を混ぜる。

ある研究報告によると、日本の投信の平均的収益率は、長い間日経平均の収益を10%以上も下廻っていたという。(p.48)
これは衝撃的な指摘ではないか! インデックスを10%も下回るというのは、ほとんど商品としての体をなしていない。ことほど左様に日本の金融業界の工学的な技術水準は低かったのであり、世界一の製造業の稼いだ国富を、最低の金融業界が食いつぶしてきたと著者が嘆くゆえんである。

マーコビッツの平均・分散モデル
さて、ポートフォリオの最適設計の基本となる考え方は、マーコビッツの平均・分散モデルである。これは「期待収益率を高くしつつ、収益率のばらつきも抑える」という基準で最適な分散投資が何かを探る。期待収益率を求めるためには、各銘柄の収益率の確率分布がわかっていなければならない。何とかしてそれを求めたとしても、「収益率を一定にしてばらつきを最小化する」という問題は、数式的には2次計画問題と言われ、現代のパソコンをもってしても、銘柄の数が千を越えるくらいになると、汎用のソルバーで解くのは苦しくなってくる。そこでマーコビッツモデルをいかに近似して、簡単に解けるようにするかに努力が払われた。

単一因子近似
その近似モデルで代表的なものがウィリアム・シャープの創始した単一因子モデル(single factor model)である。これは物理学的に言えば一種の平均場近似であり、各銘柄の収益率が、何らかの意味で市場平均に連動していると仮定する。具体的には、
ある銘柄の収益率 ∝ 市場平均ポートフォリオの収益率
のような仮定を置く。切片を含む比例係数は過去のデータから最小2乗法で求められる。この仮定を置けば、マーコビッツの平均・分散モデルを割と簡単に解けるようになる。実際、シャープは、20銘柄程度のポートフォリオを作って、元のマーコビッツ理論の解と、この単一因子近似に基づく解がほとんど変わらないことを示したのである。

ただ、ここに落とし穴があって、
実のところを言えば、これは銘柄数が少ない場合の話であって、100銘柄を越えると、両者の結果はかなり違ってくる。また1000銘柄ともなると、両者にはほとんど類似性がなくなる。しかし、それが明らかになるのは、実際に1000銘柄のモデルが解けるようになった80年代以降のことである。(p.65)
とのことである。この事実が、後年の多因子モデルや絶対偏差モデルにつながってゆく。

CAPM理論
しかし兎にも角にも、シャープの単一因子近似は、マーコビッツモデルを、具体的に解ける形に落としこむという意味で非常に意義深いものであった。しかも、国債のような無リスク資産の存在を前提にすれば、次の定理(2資産分離定理)が導ける。
平均・分散モデルに従って投資を行う投資家は、市場平均ポートフォリオと無危険資産だけに投資を行う。(p.65)
これを信ずれば、TOPIXのようなインデックスに連動するファンドか、そうでなければ短期国債だけに投資するのが最善、ということになる。これが、上記勝間本の種本であるマルキールが依拠した結果である。

その上、
(個別銘柄の平均収益率と無リスク資産の収益率の差)
∝ (インデックスの平均収益率と無リスク資産の収益率との差)
という関係式が成り立つことも示せる。この式の比例係数を β と書く習慣があり、これにちなんでこれをベータ関係式と呼ぶ。ベータが1の銘柄は、市場平均ポートフォリオと同じ振る舞いをする銘柄であり、ベータが2の銘柄は、市場の動向により敏感に反応するハイリスク・ハイリターン銘柄、と言うことができる(p.67)。

ベータもまた、過去のデータから最小2乗法などで決められる。銘柄ごとにベータさえ決めれば、複数の銘柄を組み合わせてそのポートフォリオ全体のベータをほぼ1にすることは比較的簡単である。2資産分離定理によれば、市場平均ポートフォリオが最善だというのだから、投資家がやるべきなのは、ベータが1になるような組み合わせを作ることだけである。

このような技術的裏づけを得て、シャープの単因子近似に始まり、2資産分離定理とベータ関係式というきわめて簡潔な結果に代表されるCAPM(キャップエム; Capital Asset Pricing Model; p.26)は正統派経済学の嫡子として隆盛を極めることになったのである。

CAPM理論の拡張
先に、単一因子近似を、物理学の平均場近似のようなものだと書いた。だとすればより「高次の」近似もまた可能であろう。近似式を複数の因子を含むように改善したモデルを多因子モデル(multi-factor model)と呼ぶ。モデルの複雑化により、最適化問題を解くのはさらに難しくなるが、アンドレ・ペロルドが提案した技巧を使うと、数千どころか、数万銘柄のモデルも解けるようになる由である(p.74)。

一方、(平均収益率を一定にしつつ)分散を小さくする、というマーコビッツのお題自体を考え直す、という方向の研究も可能である。本書では、著者自身が開発した平均・絶対偏差モデル*、平均・下方リスクモデル、などが要領よく説明されている。
* H. Konno and H. Yamazaki, "Mean-absolute deviation portfolio optimization model and its applications to Tokyo stock market," Management Science, 37 (1991), pp.519-531 [link to PDF].

個人投資家はどうすればいいのか
金融工学の諸理論・諸手法を解説した後の第7章第1節は、個人投資家向けの投資ガイドのような趣になっている。著者はまず、経済学的な2つの「常識」について言及する。
  • ランダムウォーク仮説
    株価はランダムウォークするので、株価の時系列に特定のパターンを見出すことはできない。したがってチャートのテクニカル分析は無意味。
  • 効率的市場仮説
    市場は効率的であるので、たとえば多因子モデルで記述されるような傾向は、すでに株価に織り込まれている。ゆえ、ファンダメンタル分析(企業の業績予測に基づく株価予測)は無意味。
マルキールの本の出発点になっているのがこれらの仮説である。しかし最近の実証的な研究によれば、実は、これら二つの常識が必ずしも成り立たないことを示している。たとえば、MITのアンドリュー・ロー教授は、ニューヨーク市場の株式市場のデータに対し徹底的な統計分析を行い、株価のランダムウォーク性と市場の効率性の双方を否定した(p.165-170)。エンジニアの直感としても、誤差分布が実測上は正規分布からずれるのはよくある話だし、効率的市場仮説に至っては、市場という媒質は一様・等方・定常で、その中では常に無限の速度で情報が伝達する、と言っているに等しく、あまりにワイルドすぎる因果律の捨象と言えよう。

しかしながら、クオンツたちに何百億円もの資金の運用を任せられる機関投資家はよいとして、以上の結果を一般投資家はどのように考えればよいだろう。著者の結論が、つまるところ勝間本と大差なく、無リスク資産+投資信託(+気に入った少数の銘柄への投資)、というものになっているという事実は興味深い。十分リスクを管理しつつテクニカル分析を行うためには膨大な労力を必要とするし、ファンダメンタルズの分析によって市場のアノマリーを見出すにも、これまた膨大な時間と労力を必要とする。結局、それらは片手間にやれるようなものではないのである。

本書のその他の内容
長くなったのでこれくらいにするが、本書にはその他にも、デリバティブの価格設定に関するブラック=ショールズ理論(4章)、金利モデル(5章)、証券化とそのリスク(6章)などなど、きわめて有用な内容が盛り込まれている。

特に、第4章にはブラック=ショールズ方程式の明快な導出が書かれていており、新書なのに!と感動したものである。ちなみに、手元にある第5版(2005年5月20日発行)では、p.119の(1)式の上にある at という量の定義が間違っているようだ。正しくは
at = ∂Ct / ∂St
であろう(p.99の「デルタ・ヘッジ戦略」参照)。

また、時節柄、証券化リスクに関する6章も読む価値が大いにあると思われる。信用リスクの評価は一般には難しく、それゆえムーディーズなど格付け機関の格付けも主観に頼る部分が大きいらしいという指摘は、本書出版の数年後に世界を襲ったリーマンショックを思えば実に示唆的である。証券化リスクの評価に関しては、同じ著者の『「金融工学」は何をしてきたのか』という本に詳しく議論されているので、筆を改めて紹介したい。



金融工学の挑戦―テクノコマース化するビジネス (中公新書)
  • 今野 浩 (著)
  • 新書: 225ページ
  • 出版社: 中央公論新社 (2000/04)
  • ISBN-10: 4121015274
  • ISBN-13: 978-4121015273
  • 発売日: 2000/04

2010年1月5日火曜日

「数学者の言葉では」


国家の品格』であまりにも有名になってしまった藤原正彦氏が、時事放談的雑文を書き散らすようになる以前、エッセイストとして最も輝いていた頃の珠玉のエッセイ集。題材は多岐にわたるが、ここでは「学問を志す人へ ─── ハナへの手紙」というエッセイを紹介したい。

これは著者が助教授として滞米中に、ハナという女子大学院生から受け取った手紙をめぐるエッセイである。手紙は、研究者としての入り口で逡巡する若者の苦悩にあふれるものであった。

ハナは著名な物理学者を父に持つ成績抜群の大学院生で、数学を専攻していた。日米問わず、大学院生はつらいものである。研究の最前線で繰り広げられる戦いに参加するためには、最低限、その戦いの前提知識を身につけなければならない。数学のような理論系の学問では、それはひたすら論文や専門書を読んでいくことだ。世俗的なすべてを捨てて、全精力をそれに注ぎ込まなければならない。その傍らで、学生から研究者への飛躍の準備もしなければならない。既存の学問的成果を理解するだけでも苦しいのに、それを越える何かを求められるのである。しかもそれらすべての作業を、周りの院生との競争の中で、学部を出てからのわずか2-3年で一段落つけることを要求されるのだ。過酷である。

普通の感受性を持つ若者であれば、時折不安に襲われても不思議ではない。自分がこれから登ろうとしている山は、果たして自分が登れるほどの高さなのだろうか。刻苦の努力の末にその山の頂にたどり着いたとして、そこから見える景色は、自分が思い描いていたのと同じく美しいものだろうか。もし幻滅が待っているのだとしたら...。

かつて私も不安であった。だからこのエッセイを繰り返し読んだ。藤原氏は、大学院生の陥りがちな不安として、次の3つを挙げている(p.25)。
  • 自分の能力に対する不安
  • 自分のしていることの価値に関する不安
  • 自分の将来に対する不安
そして、これらを乗り越えるための研究者の資質として、次の4つを挙げている。
  • 知的好奇心が強いこと
  • 野心的であること
  • 執拗であること
  • 楽観的であること
しかし正常人であるかぎり、これらのすべてを兼ね備えていたとしても、上記三大不安との戦いは常に付きまとう。自分の知的営為は決して完璧ではありえないから、基準の取り方によっては、自分の能力、研究の価値、自分の将来、いずれにも否定的な評価を与えることは可能である。ほどほどのところで自分を満足させるというのは確かに挫折もしくは妥協であるが、藤原氏によれば、既成研究者の大半は「不安が頭をもたげる度にそれを、なだめつ、すかしつ、だましつ、研究に支障をきたさないよう処理している。妥協を通して、不安と共存しているのである」(p.28)。

若いハナはあまりに潔癖であり、不安をやり過ごす老獪さを持ち合わせていなかった。彼女は結局大学院をやめることになる。溢れる才能があったとしても、研究者として成功するのは簡単ではない。すんなり楽観派に移行して一本立ちできたように見えても、それは「研究がうまく起動に乗ったり、好論文が一つ書けたり、あるいは指導者に励まされたり」(p.29)といった小さなきっかけによるものかもしれない。それは自分の力の外にある僥倖のはずである。まともな教育を受ける機会に乏しい田舎で育った私にはそれがよくわかる。他人への対抗意識だけで生きているような人も世には多いけれど、私は、さりげなくそういう僥倖を与える側になれたらと思う。



数学者の言葉では (新潮文庫)
  • 藤原 正彦 (著)
  • 文庫: 255ページ
  • 出版社: 新潮社 (1984/01)
  • ISBN-10: 4101248028
  • ISBN-13: 978-4101248028
  • 発売日: 1984/01

「理系のための人生設計ガイド」


医学系の研究者を対象に、人生設計のノウハウを書いた本。著者坪田氏は、慶應大学医学部教授であり、眼科の著名な研究者である。ノーベル賞確実といわれる山中伸弥京大教授の笑顔と推薦文が載った帯と共に平積みされているとインパクト満点である。実は私もそれに釣られたクチである。内容はひたすら前向きで、ネットワーク構築術、ポスト獲得術、研究業績向上術、企業売り込み術、時間管理術、危機管理術、などのテーマごとに、著者のTipsが伝授されている。

あまり中身を吟味せず本書を買ったのは、かつて読んだ坪田氏のブルーバックス・『眼の健康の科学―テクノストレスの予防から角膜移植まで』に好感を持っていたからだ。一般ウケより研究的興味を優先したなかなか硬派な本だった。研究の世界で第一線にいる緊張感がありありと感じられ、とても頼もしく思ったものだ。

しかし本書に限って言えば、得るものは多くはなかった。というのは、研究者にとっての最大の不安要因とは、自分の研究的才能そのものにあるはずなのに、本書にはその点がまったく書かれていないからだ。「母校の教授になるために」とかは、そういう本質的不安と、それに付随する生活の不安がクリアされた後の話であり、多くの非テニュアな理系研究者には、本書は勝ち組のお気楽トークに聞こえてしまうだろう。

おそらくこの点は、研究をやめても開業医として余裕でリッチに暮らせる医学部と、研究を止めたら直ちに路頭に迷う他分野との違いなのかもしれない。
  • 自分に研究者としての才能がなくても、社会的に尊敬されつつ豊かな暮らしが送れる
  • 自分に研究者としての才能がなければ、社会の底辺に転落するかもしれない
この違いは大きい。言うなれば、医学研究者では、研究とは道楽なのであって、それをやめたとしても生活する道は開かれている。しかしそれ以外の研究者では、研究とは生活でもある。そこに悲劇があるのだ。

ということで、私の観点から言えば、真に人生設計が必要な若き研究者へ送る言葉としてより有用なのは、研究者の内的不安に正面からスポットを当てたものである。次項でそういう本について見てみよう。


  • 坪田 一男 (著)
  • 新書: 251ページ
  • 出版社: 講談社 (2008/4/22)
  • ISBN-10: 4062575965
  • ISBN-13: 978-4062575966
  • 発売日: 2008/4/22

「インディでいこう!」

勝間和代氏の事実上のデビュー作。この頃はまだ、「ムギ」という、パソコン通信時代から使っていたハンドルネームでの執筆であった。『お金は銀行に預けるな』が会計士・コンサルタントとしての硬派な実力を示す代表作だとしたら、ややおちゃらけ気味の本書は、自己啓発のための頼れるお姉さんとしての軟派系代表作と言えるだろう。最近の勝間氏本人は本書を「顔から火が出るくらい恥ずかしい」などと謙遜しているようだが、私見では、その後彼女をカリスマへと押し上げる原動力になったあらゆる技巧が無防備にさらされているので、その意味でむしろ鑑賞の価値はある。

内容は、副題にある通り、オトコに頼らずがんばって生きて行こう、自分で自分をプロデュースしましょう、という、まあ、お気楽OLならば心に引っかかるかもしれないもので、私としてはコメントのしようがない。インディというのはインディペンデントから取った造語で、経済的自立、自慢できる夫または恋人の存在、いい女として年を取る、などの条件を満たす女性だそうな。一方、ウェンディというのが、女をウリにして男に依存して生きてゆく旧型女性の象徴である由。

私の想像が正しければ、勝間氏の脳内構造は理系男子と本質的に同一であるように思うのだが、本書には、おそらくは「ムギ畑」という、働く母親たちのためのサイトを運営する過程で培ったであろう「女子操縦術」(?)のような技巧が存分にちりばめられていて飽きさせない。婚期を逃しつつある理系男子への恋愛指南書として推薦したいくらいである。

たとえば、経済的自立の目安として、唐突に「年収600万円以上を稼げる女であること 」というのが出てくるのだが、このあたりの豪快な論理展開に実に感心した。想定する読者から共感を得られそうな題材について歯切れよく言葉を並べて、自分の土俵にある程度引き込んだ後に、「年収600万以上」のように豪快に断定をかます。これで大方の女子は、「なんかよくわかんないけど納得!」と思ってくれるようだ。しかもお気楽系女子ばかりでなく、理論派高学歴女子の鑑賞にも堪える程度に、論旨を練ってデータを用意しているところがすごい。さすがコンサルタントとして揉まれただけのことはある。

ちなみに勝間氏は、最近、35歳独身限界説というのを提唱して物議をかもしているが、「35歳」という数字に真剣に反応してしまっているイタい人が結構いるのには驚く。「35歳」とか「600万」とかはただの記号、もしくはシャレであって、それ自体を突っ込んでも仕方ない。言ってみれば、論理と非論理の境目には、ある種の「言ったもん勝ち」の世界があって、そこでしれっと涼しい顔で、何か断定的なことを言ってみせるのがコンサルティングビジネスの、まあ本質である。そして、「自己啓発」みたいなロジカルにも精神論にも転びうるテーマをそれに絡めて、広大なマーケットを開拓した点が勝間氏の不朽の業績である。私のような割と奥床しい人間にはできない芸当で、お見事というしかない。勝間氏のある意味での首尾一貫性を知る上での必須の本である。


インディでいこう!
  • ムギ(勝間 和代) (著)
  • 単行本: 207ページ
  • 出版社: ディスカヴァー・トゥエンティワン (2006/1/18)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4887594429
  • ISBN-13: 978-4887594425
  • 発売日: 2006/1/18

同内容の本が別タイトルで最近出版されている。


勝間和代のインディペンデントな生き方 実践ガイド (ディスカヴァー携書 022)

  • 勝間 和代 (著)
  • 新書: 216ページ
  • 出版社: ディスカヴァー・トゥエンティワン (2008/3/1)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 488759626X
  • ISBN-13: 978-4887596269
  • 発売日: 2008/3/1

2010年1月4日月曜日

「お金は銀行に預けるな 金融リテラシーの基本と実践」


勝間和代氏の出世作。ずいぶん前の本かと思っていたが、わずか2年前の本である。主たる内容は、庶民がまとまったお金を動かす際にやりがちな過ちを指摘し、合理的な行動を指南するもの。たとえば、庶民に馴染み深い銀行預金や住宅ローンがいかに非合理的な選択かを指摘しつつ、その代案として、国債から始まり商品ファンドに至るまで、いろいろな金融商品を非常にわかりやすく解説している。金儲けの幻想を煽るような本ではなく、随所に「リスクなしに儲ける方法などない」("There is no such thing as a free lunch", p.66)という原則を強調するという正しい態度を貫いている。

本書は、自己啓発の教祖になってしまった最近の勝間氏の真の実力を思い出させてくれるという点で貴重である。最近の粗製濫造作品とは別物と考えた方がよい。経済学的な記述は正確であり、題名も見出しのつけ方も秀逸である。投資入門、のようなカテゴリーの本では、おそらく最も優れた本と言える。

他の先進国に比べて日本人は、全資産におけるリスク資産の割合が低いことが知られている。しかし、リスクをどのくらい好むかについての国民性調査をやってみると、日米にほとんど差はないという結果がある(p.26)。だとすれば、日本人がリスク資産に手を出さないのはなぜか。著者はそれを金融知識の不足に求める。ではなぜ金融知識が足りないのか。著者はその主たる原因を、金融教育の不足と日本人の長時間労働に求める。このあたりの指摘は定量的データを使った小気味よいものだ。何より、投資入門、というスタンスの本なのに、あえて社会的・構造的問題についての指摘から入るというスタイルに、著者の正義感のようなものが垣間見えて心地よい。

2章以降、資産についての庶民の常識のようなものを著者は次々に論破してゆく。それをいくつか見ていこう。

  • 当面使わないお金は、銀行の定期預金でなく国債に投資せよ
    年利を見れば自明なことである。ただし国債は、途中解約すると元本割れの危険がある。
  • 現金資産があるのなら家やマンションは買うな
    13ページにわたって力説されている。住宅ローン金利の不合理な高さ、不動産売却の難しさ、など問題が多い。「これらが、最近、都心に賃貸で住みながら金融資産を多く持っているという層が増えてきている背景です。つまり、最も合理的な行動をとるとこのような形になるのです。」(p.105)
  • 生命保険は一般に無駄が多いので、必要最低限とせよ
    掛け金がかなり高い割に、リスクの計量が難しい。たとえば子供の生活費を残すという観点で加入するとしても、たとえば逓減型の保険を選択せよ、と主張。
  • 直に株式投資をして儲けるのは玄人にも困難。投資信託を利用せよ
    特にインデックス投信が手軽で効率がよい。
最後の株式投資については、本書では、ファンダメンタルズ分析(財務・経済分析)に比べてチャート分析(株価の変動パターンで投資のタイミングを決めるやり方)が、投資パフォーマンスににおいて優れているという事実は知られていない、というスタンスで書かかれている(p.49、157)。特に、日経マネーの8400名余りの個人投資家のアンケート調査では、ファンダメンタルズをチャート分析よりも重視する、と答えた投資家の方が有意に高い成績を挙げていた、との結果は説得力がある(p.157)。

最近の金融工学の研究によれば、チャート分析を工夫することでインデックスを上回る成績を挙げたとの論文もあるようなので、一概にチャート分析を否定はできないのだが、素人の相場観のようなものを頼りにした株式投資はやるだけ無駄、というのは庶民向けには重要なメッセージであろう。

なお、2007年の本書発売後すぐに、本書の通りのインデックス投信に投資した真面目な読者はかなりの損害をこうむったはずである。その後のリーマンショックで、たとえばTOPIXは半分近くに暴落したからである(下図)。しかし著者を恨んではいけない。繰り返し述べられている通り、「管理できるのはリスクのみ。リターンは管理できない」からだ(p.160)。


2005年1月から2010年1月までのTOPIXの推移(グラフ出典: Yahooファイナンス




お金は銀行に預けるな 金融リテラシーの基本と実践 (光文社新書)
  • 勝間 和代 (著)
  • 新書: 230ページ
  • 出版社: 光文社 (2007/11/16)
  • ISBN-10: 433403425X
  • ISBN-13: 978-4334034252
  • 発売日: 2007/11/16