2010年12月1日水曜日

「132億円集めたビジネスプラン」

旧態依然の規制業種の代表のように思われている日本の保険業界に72年ぶりに新規参入した件で話題になっているライフネット生命の創業者の一人、岩瀬大輔氏によるビジネスプラン作成指南書。実質的に創業期のあれこれの回想記のような体裁である。文章は簡潔明瞭で読みやすい。

本書は知り合いに勧められて読んでみたものであるが、申し訳ないことに、正直、感心するポイントがほとんど何もなかった。電車の中の30分でもういいやと思った次第である。

著者はハーバードビジネススクール(HBS)を上位5%の成績で修了したというのをとても誇りに思っているらしく、本書でもHBSではこういうことを学んだ、とか、こういう見方を教えてくれた、のようなくだりが頻繁に出てくる。しかし研究者的観点から言わせてもらえば、学校で教わったことを嬉々として繰り返しているようでは話にならない。それもわざわざHBSなどと略して繰り返された日には、もう、恥ずかしいとしか言いようがない。

たとえば「東大ではこんなことを学んだ」のような言い方はまともな大人はしない。「開成(麻布、灘、...)ではこういうことを学んだ」みたいな言い方も多分ない。いや、「陸軍士官学校では○○精神を叩き込まれた」みたいな言い方は聞いたことがある気がするから、あるいは過去の栄光を回顧したい老人ならそういう言い方をするかもしれない。彼らは「今」に恥じらいがないからである。

文章の明瞭さから察するに、岩瀬氏は優秀な人物である。しかしHBSがどうのという言い方に何の恥じらいもないところから見て、彼は世界を創れない人である。HBSという枠組みにすばやく自分を同化させ、その同化能力において、優秀な成績を収めたのであろう。しかしビジネスのダイナミクスは物理学の法則と違い融通無碍である。むしろ上位5%というその触れ込み自体が、彼の創造力の欠如を証明しているように思えてならない。おそらく彼は知らないだろう。無から世界を構想できる人間が存在しているという事実を。

上で感心するポイントがほとんど何もないと書いたが、実はひとつある。それはライフネット生命の広報戦略である。楽天の三木谷社長の言葉を引いて岩瀬氏は言う。「ネットショッピングの時代こそ、人々は商品だけではなくその背後にあるドラマや物語も共有したいと思っている」(p.110)。おそらくこれは正しい。

実際、私が岩瀬氏の名前を知ったのは、一時期は無料でpdfが公開されていた『生命保険のカラクリ』という本を通してである。戦略は巧妙であった。電子書籍が話題になっている最中、おそらく日本で最初に、新書の全文pdf公開ということをやったのである。あたらし物好きの多くはそれをダウンロードしたろう。私もそうであった。本の中身といえば、彼の個人的物語も交えつつも、実質的にはライフネット生命の宣伝なのであった。その戦略は本当に見事であった。

物語の共有 ── これはネット時代に限らず、広報というものの原点であると私は思う。物語を作るのには才能が必要であるが、多くの人にはそれがない。そのことを考える時、岩瀬氏らが仕掛けた広報戦略は驚嘆に値すると言ってよい。真っ当に受け取れば駄作と言わざるを得ない本書が、その幼稚としか思えない物言いも含めて、実は彼の広報戦略の一環なのだとしたら ── もし本当にそうなら、彼は真の天才である。


132億円集めたビジネスプラン

  • 岩瀬 大輔 (著)
  • 単行本(ソフトカバー): 177ページ
  • 出版社: PHP研究所 (2010/11/16)
  • ISBN-10: 4569771904
  • ISBN-13: 978-4569771908
  • 発売日: 2010/11/16
  • 商品の寸法: 18.6 x 13 x 2 cm

2010年11月29日月曜日

「零戦の遺産―設計主務者が綴る名機の素顔 」

零戦の主任技師として有名な堀越二郎技師の回想録。数多くの制約の中でいかに最高の戦闘機を作り上げたかについて、当事者ならではの貴重な証言が数多く書かれており、一次資料として外せない本である。

しかし、この英雄的で悲劇的な兵器の物語として我々が期待するほど本書は読みやすくはなく、何より、世界中の文献から零戦を賞賛する引用をほとんど無数に引いていて、こういう要するに自慢満載の本を出版できる点に、堀越氏の特異なキャラクターが透けて見える。

堀越氏が何度も痛切の思いで語るのは、日本には高性能のエンジンを作る能力がなかったという点である。大戦後期に零戦を餌食にした米軍のF6Fヘルキャットが積んでいたのは2000馬力級のエンジンである。この2000馬力というのは、日本が作ることのできた最高のエンジンのほとんど2倍の出力である。軽自動車とスポーツカーくらい違う。しかし当時の戦士たちは、軽自動車に乗ってどうやってスポーツカーに勝つかを考えねばならなかった。そこで出てきたのが、軽装・軽量の機体により格闘戦に持ち込む、という戦術思想である。

この思想に基づいて、三菱の技師たちは最高の作品を作り上げた。大戦初期、まだエンジンの出力において日本の技術力の劣勢が顕著でなかった頃は確かに零戦は無敵であった。しかし産業の広がりにおいて圧倒的に勝る米国が強力なエンジンを作り上げた時、たとえ空力性能として凡庸なものであったとしても、それを搭載した戦闘機たちに、わが零戦が対抗する余地はほとんどなかったのである。

このエンジンについての彼我の能力差を理解することはこの戦争で日本海軍が取った戦術を理解する上で非常に重要である。よく言われることであるが、零戦の防御は米軍の戦闘機に比べて貧弱であった。しかし零戦は軽自動車なのである。軽自動車にボルボ並みの安全性能を求めるのは無理というものである。だとすれば、防御を犠牲にしても機体を軽量に保ち、高い格闘性能を求めるしか道はない。それは「進歩派」の人が指摘するような軍の人名軽視思想の現われということではなく、技術的に合理的な選択に過ぎないのである。


零戦の遺産―設計主務者が綴る名機の素顔 (光人社NF文庫)
堀越 二郎 (著)
文庫: 220ページ
出版社: 光人社 (2003/01)
ISBN-10: 4769820860
ISBN-13: 978-4769820864
発売日: 2003/01
商品の寸法: 15 x 10.6 x 0.8 cm

2010年11月27日土曜日

「MADE IN JAPAN ― わが体験的国際戦略」

ソニーの創業者のひとりで、長らく日本の国際的な顔であった故・盛田昭夫氏の自伝。本書が書かれたのは1987年、まさにバブル絶頂期であり、「ライジング・サン」日本の代表的国際企業としての盛田氏の意気も軒昂である。それをあえて衰退局面に入っていると思われる今の日本で読むことには意義があろう。

本書第3章までは、裏通りのボロ屋から始めて、ソニーが国際的大企業になってゆく疾風怒濤の記録である。今風に言えば、ソニーは大学発ベンチャーということになろうか。創業メンバーは超エリートの出である。

盛田氏は海軍技術士官から東工大講師になり、その後、GHQによる軍人の学校からの追放を理由に、ソニーの前身・東京通信工業に移った(p.58)。一方、盟友の井深大氏は、元早大理工科講師で、戦時中は軍向けに磁気探知装置の部品を作っていた(p.52)。

盛田氏は名古屋の造り酒屋の長男で、子供の頃から裕福に育った。好奇心の赴くままに、お屋敷に工作室的なものをこしらえ、そこで電気工作などにも精を出し、すでに旧制中学の時に『無線と実験』誌により磁気録音についての技術的な情報を得ていた。子供の頃に聞いた電気蓄音機の音のすばらしさへの感動。それはその後の盛田氏の製品開発の原点となる。

ソニーの成功の歴史は、破壊的イノベーションの歴史である。設立時、東通工でどのような製品を作るか議論した際、当然話題になったのはラジオ受信機である。当時の最大の娯楽でありマスメディアであり、市場規模は大きく、需要も旺盛なのは明らかだったからだ。しかし井深氏はそれに断固反対する。先行する大企業には正規戦では勝ち目がなく、ニッチに追いやられるのが関の山だというのがその理由である。「井深氏と私が描いていた新しい会社の構想は、時代に先がけた独創的な新製品を生産することだった。単なるラジオの製造では、この理想とあまりにかけはなれている」(p.60)。

これはまさに、破壊的イノベーションが顧客第一主義からは決して生まれないという実例である。盛田氏らはテープレコーダーの試作をはじめ、なんとか実用に耐えうるものを作ることに成功する。しかしテープレコーダーは最初まったく売れなかった。市場がないのだから当然である。思い悩んでいた盛田氏は、あるとき、骨董屋を通りかかり、テープレコーダーよりも高い壷が買われていくさまを目撃する。

その骨董品蒐集家はそのつぼの価値を十分知っているから、買ったのだ。あれほど多額の投資をする正当な根拠が彼にはあった。...テープレコーダーを売るためには、この製品の価値をわかってくれる個人や機関を見分ける必要があったのだ。偶然通りかかった骨董屋で、私は目が開かれる思いがした。そして、売るためには、買い手にその商品の価値をわからせなければならない。やっとそういう結論に到達したとき、私は、自分がこの小企業のセールスマンの役割を果たさなければならないと考えた。(p.69)

これがソニーの、技術開発主導・市場創造型のビジネスモデルの原型となる。その後、トランジスタラジオ、ウォークマンなど、市場創造型と言え、ソニーの名声を不朽のものとした。

第4章以降は、1987年当時の盛田氏の経営論である。この頃は日本の人件費はアメリカ等と比べて競争力のある水準にあった。日本市場もまだ未成熟な大市場と考えられており、ちょうど現在の中国と同様な勢いがあった。バブル絶頂期のこの盛田氏の言に接すると、日本型雇用慣行や日本型経営というものが、単に経済発展のある段階において可能な偶然の産物であったことがよく分かる。盛田氏は同じく終身雇用を標榜していたIBMと日本型経営との類似を指摘しているが、IBMの終身雇用も、単にメインフレームビジネスが好調で、右肩上がりの成長が約束されていた時代の産物である。本書出版の5年後には、その後のダウンサイジングの波をかぶり、IBMは創業以来最大のリストラに踏み切ったことはよく知られている。

日本企業も同様である。賃金水準が先進諸国に相対的に競争力を持ち、国内市場・国外市場共に拡大基調にあれば、企業を単調に大きくしてゆくことができる。しかし前提が崩れてしまえば、あとは経済原則に従った合理的な判断があるのみである。

本書にある盛田氏の経営論、ついでにいえば教育論のようなものも、このように若干斜から構えた視線を投げかけざるを得ないのだが、しかしそれを差し引いても、若き盛田氏の疾風怒濤の活躍はまさに痛快そのものである。

裕福な造り酒屋に生まれた盛田氏は、家を継いで家長として安定して裕福に暮らす選択肢があった。しかし彼はそれをせず、むしろ現在の世界の延長線上にない新しい世界を創造し、それを現実のものにした。現在の市場にあまり重きを置かないことを破壊的イノベーションの特徴とするならば、自分を育んだ旧世界にあえて背を向けた若き盛田氏の人生選択は、それ自体が破壊的イノベーションの象徴になっているように思う。「最近の若者はハングリーさが足りない」などと、貧困こそが革新の原動力であるとする見方は今も根強いが、盛田氏の場合、革新を可能にしたのは、ふんだんに「研究費」と自由を与えられた時に広がる創造力の翼に他ならない。


MADE IN JAPAN(メイド・イン・ジャパン)―わが体験的国際戦略 (朝日文庫)

  • 盛田 昭夫 (著), エドウィン ラインゴールド (著), 下村 満子
  • 文庫: 534ページ
  • 出版社: 朝日新聞社 (1990/01)
  • ISBN-10: 4022605820
  • ISBN-13: 978-4022605825
  • 発売日: 1990/01
  • 商品の寸法: 14.8 x 10.6 x 2.4 cm

2010年9月12日日曜日

「戦艦武蔵ノート」

終戦から20年経った1960年代に、史上最大空前絶後の巨大戦艦・武蔵の建造から沈没までをたどった取材記録。三菱重工関係者へのインタビューなどをもとに、類書にない貴重な情報を多数引き出しており、この巨大戦艦に興味を持つ人ならおそらく必読である。

本書は、当時のベストセラー小説であった『戦艦武蔵』という小説の取材記録を時系列的にまとめたものとしての位置づけで、たとえば著者が太宰治賞を受賞したくだりなど、武蔵とは無関係の著者の生活にまつわるエピソードなども盛り込まれている。この点、ルポルタージュとしては散漫な印象を与えなくもないのだが、ほとんど異常とも言える誠実さをもって実行される圧倒的な取材記録の前には、誰しも頭を垂れざるを得ない。

本書の最大の特色は、敗戦後の時点から見たありがちな政治的解釈を徹底的に排している点であろう。本書冒頭はいきなり、いわゆる「進歩的文化人」の変わり身の早さを非難する部分から始まる。
過ぎ去った戦争について、多くの著名な人々が、口々に公の場で述べている。「戦争は軍部が引き起こした」「大衆は軍部にひきずられて戦争にかり立てられたのだ」等々...。それらも、おそらく本心からの声なのだろうが、私のこの眼でみた戦争は、まったく種類の異ったものにみえた。正直に言って、私は、それらの著名人の発言を、彼ら自身の保身のための卑劣の言葉と観じた。
嘘ついてやがら ── 私は、戦後最近に至るまでの胸の中でひそかにそんな言葉を吐き捨てるようにつぶやきつづけてきたのだ。(p.5-6)
そしてこの強い思いを原動力に、当時武蔵に関わったすべての人の情熱と献身を著者は描いてゆく。敗戦という大事件から自由に想像力を働かせることは容易なことではない。たとえば、同じく多数のインタビューに基づいてはいるが、日本軍=悪の組織、との後付けの政治的ストーリーで塗りつぶされた『沖縄住民虐殺 ─ 証言記録』と対比する時、本書の著者吉村氏の知的強靭さは特筆に価する。

よく知られているように、戦艦武蔵は、大鑑巨砲時代の最後の「作品」であった。しかもその建艦思想が時代遅れであることを証明したのが、大日本帝国連合艦隊の太平洋戦争初期の戦果であった(p.17)。いうなれば武蔵は大日本帝国滅亡の象徴と言える。そういう、武蔵の存在自体が帯びる悲劇性から容易に導かれるストーリーは、日本海軍は時代遅れの巨艦を作る計画を変更できないほど頑迷であり、技術者はその頑迷な軍部に強制されて酷使されたのであり、機密保持のためにさまざまな制約を強いられた三菱重工長崎造船所の周辺住民は特高の目におびえて抑圧されていたというものであろう。

しかし著者が何度も繰り返すように、敗戦まで、日本において戦争は悪ではなく、むしろ正論を通すための正当な行為であった。少なくとも圧倒的多数の国民はそう信じていた。だとすれば、勝負がついた時点から逆算して勝ち馬に乗って、見てきたようなことを書き連ねるような知的態度では見えないであろうドラマが、武蔵という悲劇の作品の周りにあるはずだ ── そう考える著者のセンスは鋭い。

戦艦武蔵が明白な戦略的失敗の所産だとの指摘すら、我々が戦後の時点から思うほど単純ではない。元造船少佐の福井静夫氏へのインタビュー記録は興味深い(p.177-)。

  • 日本海軍の用兵思想は世界でもっとも進んでいた
    • ドイツ海軍は大和、武蔵の18インチ砲より大きな20インチ砲を持つ戦艦の建造を計画していた。
    • アメリカ海軍も戦艦重視の思想を持っていた。
    • 日本海軍は、世界の趨勢に反して、戦艦よりも航空母艦を主と考えており、太平洋戦争開戦時点で、世界最強の航空母艦群を保有していた。
  • 日本海軍の砲撃術は列強の中で抜群に優れていた
    • 日露戦争の日本海海戦では、ロシア艦隊の命中率は2パーセント(6000メートル程度の距離)。一方日本海軍は3パーセント。
    • 第1次大戦のジュットランド海戦では、イギリス艦隊は3パーセント、ドイツ艦隊は5パーセント程度の命中率(8000から1万メートル)で、ドイツ海軍が格段に優秀であった。
    • 太平洋戦争開始時の日本海軍は、3万メートルの大距離で、戦艦金剛が26%もの命中率。比叡長門陸奥はそれよりさらに優れる。これは全世界の海軍の中で一段と群を抜いたもの。
  • 武蔵、大和の建造は、上記の事実から導かれる合理的戦略であった
    • アメリカ海軍の戦艦の射程距離は3万メートル。
    • 武蔵、大和の主砲は4万メートルで、しかも、砲撃の精度は圧倒的に日本海軍が優れる。

先進的な用兵思想と共に、海戦における砲撃精度は日本海軍の最大の強みのひとつであった。すでに世界最大の航空母艦群を持ち、しかも零式艦上戦闘機のような世界最大の航続距離を持つ戦闘機を豊富に保有していた日本海軍にとってみれば、武蔵、大和の建造により万全を期したというのが事実だったのではないか。この視点からすれば、硬直化した愚かな組織による愚かな判断、という武蔵に関するありがちな評価もまた変わってくる。日本海軍に誤算があったとすれば、大戦中にアメリカ軍が、レーダーVT信管などのエレクトロニクス兵器を成功裏に実戦投入したことであろう。それを開発するだけの産業の広がりは日本にはなかった。しかしそれは軍の失敗ではない。

歴史を学ぶことの意義が、未来への教訓を得ることだとすれば、当時の意思決定プロセスを正しく理解することは重要である。それは現時点での偏見に基づいて、いわば勝ち馬に乗った上で居丈高に敗者を非難することとは、ほとんど対極にある知的作業である。このことが、先の大戦のみならず、今に生きる我々のあらゆる意思決定に当てはまることに注意したい。たとえば企業の栄枯盛衰の歴史を語る際、現在の勝ち組企業の戦略をそのまま追認し、返す刀で競争相手を非難する論法は、ありとあらゆるところで目にする。そういう態度は、上記「進歩的文化人」の態度と同様、あまり知的な態度とは私には思われないのである。


戦艦武蔵ノート (岩波現代文庫)
  • 吉村 昭 (著) 
  • 文庫: 288ページ
  • 出版社: 岩波書店 (2010/8/20)
  • ISBN-10: 4006021720
  • ISBN-13: 978-4006021726
  • 発売日: 2010/8/20
  • 商品の寸法: 15 x 10.6 x 1.2 cm

2010年9月4日土曜日

「競争優位のイノベーション ― 組織変革と再生への実践ガイド」

企業が技術革新に追随して高い業績を保つためには、不断の組織変革が必須である、と説くビジネス書。本書の著者はコロンビアおよびスタンフォード大学のビジネススクールの教授で、組織論を専門とする。実地のコンサルティング経験も豊富なようである。原著 "Winning through Innovation" は1997年刊で、直ちに翻訳され、折からのMBAブームもあり、わが国においてもっとも売れたビジネス書のひとつとなった。

本書を、同じ年に書かれたクリステンセンの『イノベーションのジレンマ』と対比的に読むのはきわめて興味深い。『イノベーションのジレンマ』では、いくつかの業界における企業の栄枯盛衰を表す実証研究から、組織内部のプロセス変革により破壊的イノベーションに対応するのは基本的に不可能であるという結論を導いている。経営層が顧客のニーズを的確に経営判断に生かす能力があり、そして組織の意識決定プロセスがその決定を迅速に行動に移せる、というのは疑いなく優れた企業の特徴であるが、まさにこの特徴が、破壊的イノベーションへの対応を遅らせるというのである。生き延びたごく少数の企業は、内部変革ではなく、スピンアウトによる独立組織や半独立の内部組織という形で新しい市場に対応した。クリステンセンの本には、本書で説くような内部変革に成功した事例は出てこない。過去にほぼ存在しなかったためであろう。

にもかかわらず、本書では、イノベーションに追従できなかったのはまさにプロセス変革に問題があったためと考えて、「業績のギャップを認識しなさい」などの命題を繰り返す。だとすれば本書には、クリステンセンの見出しえなかった秘密のメカニズムが明らかにされているのだろうか? あるいは目から鱗が落ちるような画期的な処方箋が提示されているのだろうか?

本書の第4章では組織の望ましい問題解決プロセスが詳述されている。
  1. 担当部門の業績のギャップを特定し、変革の機会をどれだけ早めるかを明らかにする(p.75)
  2. 重要問題と業務プロセスを描く(p.77)
  3. 組織の整合性チェック(p.78)
  4. 解決策を考え、修正措置を講じる(p.84)
  5. 反応を確認し、結果から学びとる(p.87)

これ自体は、優れた組織であれば当然目指すべき内容であり、文句のつけようがない。実際、企業の幹部候補向けの多くの研修プログラムは、このようなプロセスを前提にしてさまざまなケーススタディを取り扱う。しかし問題は、クリステンセンが実証的に述べているように、破壊的イノベーションの前夜においては、真の意味で「担当部門の業績のギャップを特定」することなどできはしないということである。

面白いことに、著者タッシュマンとオーライリーもまた、破壊的イノベーションによるゲームのルールの劇的な変更についてよく認識している。
テクノロジー・サイクルの引き金になるのは、不連続的なテクノロジーの出現である。すなわち、珍しい、予測できない出来事が科学や工学の進歩によって引き起こされるのである(たとえば、時計のゼンマイが電池の取って代わられた例)。不連続的なテクノロジーの出現で、既存の漸進型イノベーションのパターンは断ち切られ、テクノロジーの動乱期、すなわちサイクルの第2段階(...)が訪れる。(p.196)

ここで「予測できない出来事」と彼らが言っていることに注目したい。もし予測できないのであれば、「担当部門の業績のギャップを特定」などできはしないのではないだろうか。実際、優れた経営で知られた過去の企業のほとんどが、予測せざる急速な事態の悪化がゆえに死に至ったのではないか。

もっともタッシュマンとオーライリーもそれに無自覚というわけではない。第7章で彼らは、不連続的な技術変革へ対処するための組織は、「両刀使いのできる組織」(p.203)であると説く。結局、クリステンセンと同様、スピンアウト型か半独立型の組織を称揚しているわけである。しかしこれは、内部的な改革は無駄だから、新しい技術に対応できる新しい組織を外に作りましょう、と主張しているに等しい。だとすれば、彼らがそれまで述べてきた、漸進的に自己改革するための方法論というのは無意味ということになりはしないだろうか。

彼らの組織論は結局のところ、不連続的なテクノロジーがまだ起きていない定常状態のマーケットの中でしか有効ではない。もちろん、何割かの企業は、そのような幸せに安定した市場の中でさえ、顧客の意向を汲み取るのに失敗しているから、その範囲では有効である。しかし本書のタイトルにある「競争優位のイノベーション」に対しては現実的有効性を持たぬ空理空論でしかない。

本書はさまざまな企業の管理職向けの研修教材として使われているはずである。しかし上述の通り、本書をいかに学習しても、将来の破壊的イノベーションに立ち向かう力は出てこない。むしろ、認識されたギャップを迅速に行動に移すためには社内のすり合わせを最適化せざるを得ず、内向きなマインドを醸成しがちであるという点で、有害なことすらあるだろう。はっきり言っておこう。本書を素朴に「古典」として持ち上げる教官がいるような研修は話半分に聞いたほうがいい。本書の受け売りをするコンサルタントも信用しないほうがいい。真に大切なのは、破壊的イノベーションを生み出すバイタリティと、その際にスピンアウト的起業を可能にする自由な空気を普段から醸成しておくことである。それに対する簡単な処方箋はまだないが、問題を解く鍵が、本書のような一見もっともらしい組織論の外にあることだけは確かだ。


競争優位のイノベーション ― 組織変革と再生への実践ガイド

  • マイケル・L・タッシュマン (著), チャールズ・A・オーライリーIII世 (著), 平野 和子 (翻訳) 
  • 単行本: 284ページ
  • 出版社: ダイヤモンド社 (1997/11)
  • ISBN-10: 4478372292
  • ISBN-13: 978-4478372296
  • 発売日: 1997/11
  • 商品の寸法: 19.2 x 13.4 x 2.2 cm

2010年9月3日金曜日

「隷属への道」


社会主義──というよりは一般に「大きな政府」派の誤りを論じた本。本書はもともと1943年にファシズムとの戦いを意識して書かれ、冷戦真っただ中の1973年に今度は共産主義との戦いを意識して再版された。この経緯を知れば「隷属」という言葉に込められたメッセージも自ずと明らかであろう。

著者ハイエクは言わずと知れたノーベル経済学賞受賞者であるが、この本は著者自身が認めるように、「時流向けのパンフレット」(p.365)であり、経済学の本ではない。政治的信念の開陳の書と言うべきである。反社会主義的な改革を断行し、英国を復活させたマーガレット・サッチャーが本書をバイブルとしていたのは有名な話である。サッチャーの施策を想起するとき、本書の次の宣言は実に感慨深い。
経済的自由主義は、諸個人の活動を調和させる手段として、競争に代えてより劣った方法が採られることには、断固として反対する。競争以外の方法がなぜ劣っていると言えるのか。それは単に、競争はほとんどの状況で、われわれが知っている最も効率的な方法であるというだけではない。より重要なのは、競争こそ、政治権力の恣意的な介入や強制なしに諸個人の活動の相互調整が可能になる唯一の方法だからである。(p.42)

60年以上前の本であるが、ある程度理想主義的な政治家が陥りがちな思考パターンの誤りを明示しているという点で、価値は失われていない。いくつか見てゆこう。

  • 真の自由主義に「中庸の道」はない(p.48)
    • 市場における競争こそが、社会的資源の最適利用と、諸個人の活動の自由を保障する手段である。社会主義的計画は、競争とは異質のルールを持ち込まざるをえない。だから、「計画と競争は、『競争に対立する計画』ではなく、『競争のための計画』という形でしか、結び付かないのだ」。(p.49)
  • すべての価値を考慮することは人間にはできない(p.73)
    • 人々のニーズは多様であり、実質的には無限にある。それを把握した上で全経済システムを設計することは原理的に不可能である。
    • 不可能だとするならば、市場での競争と、それに付随する価格メカニズムにシステムの制御は任せるべきである。
  • 「結果の平等」は自由を破壊する(p.101)
    • 「異なった人々に客観的に平等な結果を与えるためには、人々に異なった扱いをしなければならない」(p.101)
    • 結局、すべての価値を考慮することが人間にできないのだとすれば、そのような異なった扱いは常に誤りに導く。だとすれば、「常に例外なく適用されるルール」としての競争のルールを作ることが我々のできる最善のことである。
  • 個人に理解しえない力こそが文明を成り立たせている(p.276)
    • 経済を動かすメカニズムは極めて複雑であり、個々人の理解を越えると考えるべきだ。その複雑さは何か将来解明されるようなものではなく、避けることができないものである。文明の本質とさえ言える。
    • したがって、自分の回りの部分情報に基づいて、不安な決断を下すという運命からは逃れられない。自由主義経済における市場メカニズムの中で生きることを受け入れなければならない。


社会主義の失敗が明らかになっている現在、社会設計に限って言えば、これらの点について合意を形成するのは、少なくともある一定程度の知性を持つ者の間であれば不可能ではないように思われる。しかし同様の思考パターンが誤りに導く例は他分野でも散見され、それを含めれば、いか本書が指摘する問題の根が深いかがわかる。

たとえば、中央集権的計画経済の誘惑との関連で言えば、池田信夫も指摘するように、初期の人工知能研究の歴史はその典型的な例であろう(『ハイエク 知識社会の自由主義』, PHP新書, p.81-83)。人工知能という語感の通り、初期の人工知能研究の目標は、人間の知識処理の方法を模擬することであった。直観的にはそれは、「○○ならば××」というようなルール(If-thenルール)をそれこそ無数に集め、そのルールを、入力された条件に応じて検索すればよいと思われる(いわゆる「エキスパートシステム」)。しかしそのようなアプローチはうまくいかなかった。事実をガートナーのレポートから引用しておこう。
1980年代後半に、エキスパート・システムなどの構築ブームが起きた。If-thenルールの集積で専門家の知識を表現するアプローチを採るOPSなどをベースとして実用システムの構築も行われたが、成功例の多くは限られた範囲の知識、つまり固定的なコンテクストが想定できるものであった。より柔軟に広範な問題に適用するために、メタ知識を表現管理できる開発ツール(KEE、ART等)も提供されたが、結局、表現された知識を、多様なコンテクストの下で利用できるまでには至らなかった。
(T. Asai, "ナレッジ・マップの陥穽," JEAS Research Note, Case Studies, JEAS-01-44 (July 25, 2001))

これは『隷属への道』の40年後の世界の話である。ここでも書かれているように、失敗の原因は、人間の知的活動の範囲を有限な範囲に押し込めることが難しいということである。我々は一見決まり切った日常を送っているように見えるが、どの1日として完全に同じものはない。エキスパートの判断もまたそういうものであり、エキスパートは頭の中で、異なるデータ同士の間に非常に洗練されたやり方で何か共通性を見出し、それをヒントに過去の事例を取捨選択して判断に使う。それは表面的には、If-thenルールの集積の検索と似ているように見えるが、実際に行われていることはそれとずいぶん違う。すべての過去の事象は、厳密な意味においてはそれぞれ何がしか異なる。個々の事象は独立ではありえないから、多体効果により、起こりえる事象の自由度はほとんど無限大となる。そのような無限の知識を蓄積しておくことは(たとえばハードディスクの容量が今の1万倍になっても)不可能であり、仮に蓄積できたとしても、当初人工知能研究者が想像したようなやり方で知識を利用することはできないだろう。結局のところ、人工知能の初期の失敗が示唆するのは、自由度が事実上無限大となる状況では、中央集権的な知識管理が原理的に不可能であるということである。

家族や企業といった小さい単位の集団で可能なことが、数百万数千万の単位の集団でも可能だと考える誤りは、この他にも枚挙にいとまがない。ソフトウェア工学における設計ポリシーのほとんども中央集権的発想で行われており、それがゆえ System of Systems への対応が今問題になりつつある。それは歴史的必然であり、ソフトウェア工学においても近い将来、社会主義的発想は打倒されることになろう。経済学的詳細を排しあえて一般向け政治的パンフレットとして書かれた本書は、さまざまな分野において、避けられる誤りを避けるために大きな示唆を与えてくれるように思われる。古い本であり、全文読み通すのは疲れるが、インテリゲンチャの基礎教養を与える本なのでぜひ手に取って頂きたい。


隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】

  • F.A. ハイエク (著), 西山 千明 (翻訳)
  • 単行本: 424ページ
  • 出版社: 春秋社; 新装版版 (2008/12/25)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4393621824
  • ISBN-13: 978-4393621820
  • 発売日: 2008/12/25
  • 商品の寸法: 19 x 13.2 x 3.2 cm

2010年9月2日木曜日

「I LOVE 過激派」

戦旗・共産主義者同盟という、今は事実上消滅してしまった左翼セクトに青春を捧げた女性の回想記。学生時代から消極的とはいえ自治会活動に参加することになり、その後、イケメンの男性活動家に惹かれるがまま、左翼セクトの支部の幹部にまでなってしまう。極左活動自体の退潮と人間関係のトラブルなどから、結局ボロボロになってセクトを去る。犯罪性があるから書けなかったのか、あるいは単に著者は半ば色仕掛けのオルグ要員だけだったためか、戦旗派が関与したテロ事件についてのきわどい情報は何もない。「共産趣味者」にはやや退屈かもしれない。

一生懸命、一心不乱。著者の気真面目ぶりは尋常ではない。まっとうに働いていればこの人は一流の仕事を為せたかもしれないのだが、幸か不幸か、絶滅危惧種の左翼セクトにハマってしまった。本書は系統としては、奥浩平『青春の墓標』とか高野悦子『二十歳の原点』と同様の「悲愴系」で、以前評した『ゲバルト時代』にあるようなオチャラケ要素が何もない。最後の方に出てくる心中のシーンはすごい。活動資金を作るべく事業を始め、それに失敗して借金を背負った元彼を助けようと、彼女に好意を持つ男たちに金を貢がせトラブルになり、一緒に死んでくれと首を絞められる。結局大事には至らなかったのだが、そういう、自らの善なる魂が周りを不幸にしてゆくエピソードがたくさんある。それを真に受けて読むと気が滅入るので、イタい女のアホアホ道中、みたいに笑い飛ばすのが、おそらく当事者たちにとっても幸せだろう。何しろ、この気真面目集団が青春を捧げた組織は消滅してしまっているのだ。すべてを喜劇と見てあげるのが思いやりというものだろう。

著者は、目の前の現実がかりそめの汚れた世界で、世界を覆う黒い霧のようなものを一挙に晴らす魔法のようなものが存在する、といつも信じているタイプのように見える。残念ながら著者の筆力は乏しく、しかも特に後半は編集者も手を抜いたようで文章もグダグダで、著者がなぜそのような感覚を持つにいたったのかという点は読者にはわからない。しかしそのようなことをまるで気にかけないかのように、文中の著者は疾走を続ける。しかしそれが強がりでも何でもなく、おそらく素のままの自分を書き連ねたというのが感じられ、不思議と読後感は悪くない。周りの男が彼女に巻き込まれていったのは、たぶん間違いなくこの素の一生懸命さが故であろう。これは文学にはならないが、悪いオトコにつかまりがちな女性たちとか、自己啓発セミナーにハマりがちな青年たちは、自分の姿を著者に重ねて感動することもできるだろう。

ただし言っておく。青春のすべてを捧げ、しかも自分ばかりか周りの人間まで運動に巻き込んだにしては、運動それ自体の理解が心もとない。その点において、いわゆる全共闘世代と共通の醜さを感ぜずにはいられない。著者にとっては「革命」は、黒い霧を一挙に晴らす情緒的な魔法なのかもしれないが、党派が消滅したという事実が示すように、客観的にはそれは無、それどころか悪であり、その悪に加担したという罪は一生消えない。当人にとっては美しき青春の思い出なのかもしれないが、彼女にオルグされ人生を狂わされた有為な青年たちには、悪を為したのである。それを忘れてはなならない。深刻に反省せよ。


I LOVE 過激派
  • 早見 慶子 (著)
  • 単行本: 276ページ
  • 出版社: 彩流社 (2007/09)
  • ISBN-10: 4779112893
  • ISBN-13: 978-4779112898
  • 発売日: 2007/09
  • 商品の寸法: 18.6 x 13 x 2.4 cm

「イノベーションのジレンマ ― 技術革新が巨大企業を滅ぼすとき」

市場での勝者がどのように生まれているかを、技術革新の不連続性に着目して実証的に説明する本。ビジネス書にありがちな主観的な断定、説教調の後付け的説明を徹底的に排し、ほとんど実験科学のようなスタイルで様々な結論を導く。理系研究者の読書に耐える稀有なビジネス書といえよう。ベストセラーとなった本だけにある意味侮っていたが、読んでみて反省した。

原著が出されたのはおよそ10年前のことだが、内容はまったく色褪せていない。むしろ出版がその時期だからこそ、過去のアップルの失敗にも率直な観察がなされており、勝ち馬に乗ってお追従を連ねるお手軽文筆業者の底の浅さを照射するという点でも面白い。

それはともかく、本書におけるもっと強烈なメッセージは、顧客第一主義は失敗する、というものである。持続的成長を遂げている企業の経営陣は優秀であり、市場すなわち既存顧客からの意見に直ちに耳を傾ける。しかし本書における数々の事例は、企業が失敗する場合、そういう「優秀な経営陣そのものが根本原因」(p.143)であることを教えている。

これはどういうことだろうか? 市場の声に耳を傾け、より利幅の大きい高性能・高品質の製品を開発することのどこがいけないのだろうか?

これを理解するために、実績ある企業の意思決定のパターンを見てみよう(p.77-84)。

  1. 技術的革新は、豊富な研究開発資源を持つ実績のある企業でなされることが多い。意欲ある技術者が試作品を作ることもあろう。
  2. 試作品や製品計画について既存顧客に意見を求める。破壊的革新のカテゴリに属するものに対する反応はたいてい鈍い。顧客自身も、現在のバリューネットの外に出るものに対する評価軸を持っていないからだ。
  3. その結果、実績ある企業は、技術開発の軸足を既存技術の延長線上に置く。それがビジネスを「右上の領域」、すなわち高収益領域に導くことは確実であるからである。
  4. 意欲ある一部の技術者がスピンアウトして新企業を作り、その破壊的技術を売る市場を見出す。その市場規模は既存市場と比べて桁違いに小さく、属するバリューネットも異なる。
  5. その新企業は新しい市場を掌握し、破壊的イノベーションの力で徐々に既存の上位市場を侵食し始める。5.25インチのハードディスクドライブが、メインフレームやミニコン用の大型ハードディスクドライブを駆逐していったように。
  6. この期に及んで、実績ある企業も新しい市場に参入を試みる。しかしすでに市場の多くの部分は、新規参入企業に持っていかれてしまった後である。収益は頭打ちになり、既存市場でのビジネスで肥大化した身体を維持することがてきず、急速に業績が悪化してゆく。

優秀な企業においては、現在のビジネスモデルに社内の判断基準が適合しているがゆえ、ある時期は高収益を上げ、企業の規模の成長してゆく。しかしそれがゆえに、まだ存在すらしない新市場に参入するのは困難となってゆく。

第4章にこのあたりの事情を面白おかしく解説したくだりがある。マーケティング部門の社員と技術部門の社員がそれぞれ、2階級上のマネージャーに新製品のアイディアを提案した。念頭に置かれているのはハードディスクドライブ(HDD)である。

マーケティング部門の社員は、既存製品を大容量化・高速化したものである。上級役員の質問に彼は如才なく答える。

  • どういう人がこれを買うだろうか
    • ワークステーション業界のある一分野全てです。この分野では、毎年、6億ドル以上がドライブに投資されています。今までの製品はそれほど大容量ではなかったので、この市場には手が届きませんでした。この製品なら参入できると思います。
  • このアイディアを潜在顧客に見せてみたのか
    • はい、先週カリフォルニアに行ってきました。各社ともできるだけ早くプロトタイプがほしいとのことで、設計までの猶予は9ヶ月でです。各社は現在の納入業者[競合他社X]と製品を開発中ですが、X社からうちに転職してきたばかりの者に聞いたところ、仕様を満たすのはかなりむつかしいようです。うちならやれると思います。
  • しかし技術者たちはできると言うだろうか。
    • ぎりぎりだというでしょうが、お分かりでしょう。やつらはいつもそう言うのです。
  • 利益率はどれくらいになるんだ
    • わくわくしますよ。現在のうちの工場で作れるとして、1MBあたりの価格をX社と同じで販売すれば、35%近いと思います。


一方、価格、サイズ、速度、容量、全てにおいて下回る新しいカテゴリの製品を技術者が考案しそれを新製品として提案したと想像してみよう。新しいカテゴリであるがゆえ、彼の答えは具体性を欠く。

  • どういう人がこれを買うだろうか
    • わかりませんが、どこかに市場はあるはずです。小型で安いものを求める人は必ずいますから。ファックスとかプリンターとかに使えるんじゃないかと思います。
  • このアイディアを潜在顧客に見せてみたのか
    • ええ、先日トレードショーに行ったとき、アイディアをスケッチして、今の顧客の一人に見せてみました。興味はあるが、どういう風に使えばいいかわからないと言っていました。現在、必要なものを全部入れるには270MBが必要ですが、これにそんな容量を詰め込むのは無理な話です...少なくとも、当面は。ですから、あの顧客の反応は驚くほどのことじゃありません。
  • ファックスのメーカーはどうだね。なんと言っていたんだ。
    • 分からない、といっています。興味はあるが、製品の規格案はもうできているし、その中でディスク・ドライブを使う予定はないと
  • このプロジェクトで利益が得られると思うかね
    • ええ、思います。もちろん、価格をいくらに設定するかによりますが

このやり取りを読めば明らかな通り、「既存ユーザーのニーズに的を絞ったプロジェクトは、かならず、存在しない市場向けに商品を開発する企画に勝つ」(p.127)。当然である。確実なリターンが望めるからだ。優秀な管理職であればあるほど、破壊的イノベーションにつながる決定からは逃げる傾向にある。

結局、実績のある企業においては、通常業務のプロセスの中で破壊的イノベーションをサポートすることはきわめて難しい。本書はそのための処方箋として、スピンアウト型の進出を勧めている。この成功例としてはQuantum社の3.5インチHDDの例と、IBMのPCの例を挙げている(第5章)。前者では、新カテゴリの製品であった3.5インチディスクの開発をスピンオフした別会社にやらせ、Quantum社本体は出資という形で関係を保った。市場がすっかり3.5インチに席巻されてしまった後は、その別会社の方が事実上本体を吸収する形で、新生Quantumは生き残った。IBMのPC事業では、本流事業から遠い西海岸で、大幅な自由度を持った独立な事業部が、メインフレーム事業との利害関係から離れてPC事業を成功させたのであった。

しかしこのモデルは、労働市場が最初から流動的なアメリカでは機能するだろうが、日本だと難しい。大企業を辞めて起業するリスクが高すぎるのである。本書において豊富なデータで論じられているあらゆる事例は、現在の日本の国際的企業の苦境の多くを説明するが、本書が提示する処方箋は、残念ながら日本では有効ではない。労働市場の流動化は企業の枠を超えた話である。政治のリーダーシップが望まれるが、散々指摘されているように、労働組合を支持母体として持つ民主党政権には改革の当事者能力はないであろう。

繰り返しておこう。「企業が破壊的技術を、現在の主流顧客のニーズに無理やり合わせようとするとほぼ間違いなく失敗する」(p.295)。主流顧客のニーズをサポートするための組織が、破壊的技術を排除するように設計されているからだ。才能ある人材をひきつける程度に実績ある企業においては、破壊的技術の目は先進的な技術者により社内ですでに知られていることが多い。スピンオフ型の事業展開を実現できるかどうかが、後の時代に名を残す経営者になれるかどうかの分かれ道である。


イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)
  • クレイトン・クリステンセン (著), 伊豆原 弓 (翻訳), 玉田 俊平太
  • 単行本: 327ページ
  • 出版社: 翔泳社; 増補改訂版版 (2001/07)
  • ISBN-10: 4798100234
  • ISBN-13: 978-4798100234
  • 発売日: 2001/07
  • 商品の寸法: 19 x 13.2 x 2.8 cm

2010年8月31日火曜日

「コルナイ・ヤーノシュ自伝 ― 思索する力を得て」

ハンガリーにおいて社会主義的専制の圧迫を受けながらも、計画経済の立案を指導し、その後米国スタンフォード大学教授に転じたユダヤ人経済学者の自伝。一面では社会主義計算論争の結果を如実に示す経済学の記録として、また一面では一時は熱狂的な共産主義者であった青年がいかに自己変革を遂げたかについての青春のドラマとして、非常に面白い。翻訳も出色の出来である。

私がコルナイ・ヤーノシュを知ったのは池田信夫のハイエク論からである。素朴にテキストを読んだ私は、コルナイが単に社会主義体制の御用経済学者で、体制の庇護の下にハンガリーでの経済計画の数学的策定に邁進したものと考えた。しかし事実は全然異なる。

弁護士の父を持つ裕福なユダヤ人家庭に生まれたコルナイであったが、ナチスドイツの膨張と、それに呼応したハンガリー内での矢十字党の跳梁により一家離散の辛酸を舐める。彼の父はユダヤ人収容所で殺されたようである。その後、ソ連軍が解放軍としてハンガリーに進駐し、ハンガリーもソ連の衛星国として共産主義体制に組み込まれる。20歳そこそこのコルナイは熱狂的に共産主義の未来を信じ、共産党中央機関紙の記者となる。しかし経済運営の現実を知るにつれ、コルナイは改革の必要性を感じるようになる。改革派のリーダー ナジ・イムレへの政治的支持をめぐる内部抗争の末、コルナイは編集局から追放される。それからコルナイの覚醒の歴史が始まる。なお、ナジは、コルナイ追放の翌年に起こったハンガリー動乱の指導者としてソ連派に処刑されることになる。

驚くべきことに、すばらしい経済学的業績、それも正統派の経済学の理論的業績を残したコルナイの経済学はすべて独学で身につけたものである。サミュエルソンの有名な教科書のドイツ語版から始め(第7章、p.124)、独力で専門的な論文を読んでゆく。これらの論文は、共産党記者時代は、ブルジョア経済学として唾棄していたものである。しかしコルナイは自分で自分を変革し、頭の中の偏見を自力で除去した。そうしてわずか数年で、有名なKornai-Liptakモデルの着想を得る。彼のモデルはマルクス主義とはまったく何の関係もなく、コルナイ自身が述べているように、古典派経済学の嫡子とみなすべきものである。コルナイのモデルは、ワルラスの一般均衡をいわば「完全計画化」の極限から実現するメカニズムを記述していると言えよう(p.147)。古典派経済学的な意味での資源の最適配分は、社会主義的手法でも到達できるのである。

コルナイのモデルはハンガリーの経済運営に実際に適用された。社会主義国ハンガリーの計画経済が、マルクス経済学と無関係な理論により運営されていたという事実は興味深い。1960年代といえば日本では、「マル経」を信奉する経済学者が、左傾化したメディアとそれに影響された左翼学生らの支持を集めつつ跳梁を極めていた頃である。現場で求められていたのは、マル経の定性的な説明や硬直した政治的言辞より、現実をよりよくするためのの具体的方法だったということだろう。

コルナイのモデルはそれに答えるように思われた。しかし実験は失敗に終わる。コルナイは彼のモデルが機能しなかった理由を列挙している(p.157-158)。
  1. 経済政策を明確にし数値目標化するのが困難である。これは政治が妥協の産物だからである。
  2. 計画通りに諸機関が動く保証がない。計算結果が信用されない。
  3. 達成すべき目標と、現実的な制約を区別することが現実の政治では難しい。主観的な空手形が横行しがちである。
  4. 計画経済に必要なデータの正しさが保障できない。
  5. 数値計算に必要な計算機資源が当時はなかった。近似モデルを使わざるを得ず、精度が劣化した

そうしてコルナイは、かつて社会主義計画論争でハイエクが述べた思想に逢着する(p.158)。これは先に引用したとおりである。

1963年からコルナイは特別に西側への出国を許されるようになる。しかしそれも長い道のりであった。現在、ハンガリーでは、社会主義時代の秘密警察の調査記録を読むことができる(それを公開する権利は認められていない)。親しい友人が実は秘密警察の協力者であったというような事実は枚挙にいとまなく、読んでいて非常に気が滅入る。しかしそのような中、コルナイは高潔を保ち、旺盛に研究活動を続ける。西側の有力大学から何度もオファーを受けるが、コルナイはハンガリー人であり続けることを選ぶ。

コルナイは確かに若き一時期、共産主義者として熱狂的に活動した。しかしそれも、純粋な理想主義に導かれたものであり、政治的野心のようなものとは無縁のように見える。コルナイは何度か友情を政治的安全と引き換えにしたが、その痛恨の記憶も本書に隠さず書かれている。コルナイは高潔な人物である。自らを律し、自らの思想の誤りを根底から総括しなおし、そして新しい経済学的世界を創造した。学者としての才能もさることながら、そのような生き方には敬意を表さざるを得ない。

いわゆる全共闘世代を自認する人々はこの自伝を読んで何を思うだろうか。学生時代マルクス主義を語り、政治の熱狂に身を投じた者たちは、コルナイと同じ水準で過去を総括できているだろうか。多くの人間は、十分な総括もなしになんとなく反政府的なスタンスを続け、最近ではたとえば自然保護運動に逃げ込んだりしているだけではないのか。彼らは新しい何かを創造したのだろうか。彼らに本書を読むことを強く勧めたい。


コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て

  • コルナイ ヤーノシュ (著), Kornai J´anos (原著), 盛田 常夫 (翻訳)
  • 単行本: 459ページ
  • 出版社: 日本評論社 (2006/06)
  • ISBN-10: 4535554730
  • ISBN-13: 978-4535554733
  • 発売日: 2006/06
  • 商品の寸法: 21.2 x 15 x 3 cm

2010年8月12日木曜日

「ハイエク 知識社会の自由主義」

ここのところ世界的に再評価の動きが高まっている経済学者 フリードリヒ・フォン・ハイエクの仕事を要領よくまとめた本。ハイエクという人物を題材にした20世紀の経済学史という趣で、非常に面白い。


社会主義計算論争

ハイエクの経済思想を理解するためには、「社会主義計算論争」(p.53)という史上もっとも有名な経済学論争をたどるのがおそらく最もよい。この論争は、オーストリアの経済学者フォン・ミーゼスが、社会主義経済には所有権も価格もないので効率的に財を分配することはできないと指摘したことに端を発する。1920年代のことである。

これに対してオスカー・ランゲら社会主義派の経済学者は、仮に明示的に価格や所有権がなくても、「中央計画委員会(Central Planning Board)」が、生産をつかさどる各部門から需給についての情報を集め、財についての全体がバランスするようにやり取りを調整すれば、完全な市場と同様の機能を果たせると主張した。1940年代にはそれが具体的に線形計画法という最適化問題として扱えることが示され(p.56)、さらにその後、その解が、新古典派の均衡解と一致することが示された。すなわち、社会全体を巨大な線形計画問題として定式化することができ、最適な財の配分のためにはそれを解きさえすればよいということが、少なくとも理論的には示されたのである。ある意味で社会主義的計画経済の最適性が示されたということである。

ミーゼス陣営に加わったハイエクは、市場メカニズムについての深い思索に基づいて、主に「知識の分業」の観点から社会主義的計画経済の不合理性を指摘した。ハイエクは問いかける。

If we possess all the relevant information, if we can start out from a given system of preferences and if we command complete knowledge of available means, the problem which remains is purely one of logic. (F. A. Hayek, "The use of knowledge in society," The American Economic Review, Vol. 35, Issue 4, pp.519-530 (1945).)

すなわちハイエクとっては、中央計画委員会が経済事象についての必要十分な知識を持っているという前提自体が受け入れがたいものであった。その前提を受け入れてしまえば、上記のように問題は数学的に解けてしまうのだが、ハイエクは、計画経済の最大の問題が、いかにして分散した知識を集約するかという点にあると考えた。そしてハイエクは、それが事実上不可能であることを指摘したのである。

市場取引の動機となる知識は、誰もがアクセスできる自然科学上の法則のようなものではなく、個々人のまわりの個々の環境に依存している。そして個々のプレイヤーの嗜好も様々である。そしてそれらは時間と共に大きく変化する。市場システムは、そのような異種混合的な社会の、局在した知識をコーディネートする仕組みとして機能している。ハイエクは言う。

If we can agree that the economic problem of society is mainly one of rapid adaptation to changes in the particular circumstances of time and place, it would seem to follow that the ultimate decisions must be left to the people who are familiar with these circumstances, who know directly of the relevant changes and of the resources immediately available to meet them. (F. A. Hayek, ibid.)

すなわち、そのようなコーディネーションは、中央計画委員会が何か能動的に行うようなものではなく、それぞれのプレイヤーの自由な選択の結果として現れてくるものだとハイエクは考えたのである。

しかしこのような考え方は多くの経済学者の受け入れるところにはならなかった。1930年前後の世界では、大恐慌は資本主義のシステム的欠陥を明示しているように思われたし、一方で、史上初の社会主義革命がロシアで起こり、社会主義経済の政治的実装が現実のものになっていた。特に知識階級においては、社会主義はこの世から不幸を一掃する福音のように受け止められていたはずである。

この時代状況において、いわば消極的な不可知論を繰り返すハイエクらの思想がどういう評価を得たかは想像に難くない。この論争に敗れた(とコミュニティから受け止められた)後、ハイエクは長い間、頑迷な保守反動の象徴として経済学研究の表舞台から消えることになる。


ハンガリーでの実験

しかし話はこれで終わりではなかった。1960年代になり、社会主義国ハンガリーの経済学者コルナイは、実際にこの理論を実行に移した。すなわち生産の各部門から上げられたデータを基に線形計画法を解いて、実際に計画経済を実行した。

その結果は、21世紀を生きる我々にはもはや説明するまでもなく、惨憺たる失敗に終わった。本書にはコルナイ自身の回顧録が引用されている。

この問題を今の頭で考え直して見ると、ハイエクの議論にたどりつく。全ての知識、全ての情報を、単一のセンター、あるいはセンターとそれを支えるサブ・センターに集めることは不可能だ。知識は分権化される必要がある。情報を所有する者が自分のために利用することで、情報の効率的な完全利用が実現する。したがって、分権化された情報には、営業の自由と私的所有が付随していなければならない。(p.59)

結局この論争は、ハイエクらのいわば逆転勝利に終わったわけである。しかもその後西側先進国はいわゆるスタグフレーションを経験し、ハイエクらを駆逐したはずの新古典派経済学の無力ぶりに不満が高まった。そしてつい最近のサブプライムローン問題は、最新の金融工学の適用限界を明らかにした。今、ハイエクの経済学的主張に通底する哲学に注目が集まるのはそういう理由である。

本書にはこの社会主義計算論争をめぐるエピソードをはじめ、ケインズとの関係、New classical 派の紹介など、経済学上の非常に多彩な話題に満ちている。その他、話題は最新の実験経済学の成果や、人工知能の歴史にもおよび、著者池田信夫氏の恐るべき博識を示して余りある。私は本書を、現代のインテリゲンチャ必読の書だと思う。


多体問題の困難

しかしひとつ注意しておきたいのは、自然科学、とりわけ現代物理学についての著者の理解は浅く(それでも博識であるが)、私のような者の目から見ても違和感のある表現が散見されるということだ。

本書の記述に細かい注釈を付けるのはまたの機会に譲り、ここでは現代物理学の常識を示す話題を2つだけ提供しよう。ひとつが多体問題であり、もうひとつがAndersonの"more is different"である。

社会主義計算論争におけるハイエクの主張は、「知識の集約不可能性」という概念にまとめられる。実はこれは物理学上はありふれた概念である。たとえば、すでに18世紀において、多体系の解を求めるのが絶望的に難しいことはよく知られていた。やや驚くべきことだが、運動方程式の一般解が求められるのは2体問題までで、3体問題以上は、特殊な条件の下でしか解くことはできない。ラクランジュの正三角形解コワレフスカヤのコマ、などがその特殊な例である。すなわち、個々の相互作用(天体の場合は重力)が既知であったとしても、それを集約して全系の動きを一望することは特別な場合を除いてできない。それができるのは、相互作用がないときである。

これに対して天文学者たちは摂動法という手法を編み出した。これは相互作用が小さいという仮定の下に、級数展開のようにして、多体効果を順次取り込んでゆく手法である。天体力学の場合、ほとんどの現象はこれでカバーできるが、20世紀、量子力学の時代になると、「相互作用が小さい」という仮定がまったく成り立たない現象が非常に多く見出され、人類は多体問題の本質的難しさに再び直面することになった。「凝縮系物理(condensed-matter physics)」とか「物性物理(solid-state physics)」とか、あるいはもっと直裁に「強相関系の物理(physics of strongly-correlated systems)」とかいうのは、そういう状況を強調するために使われる言葉である。今の文脈に即して言えば、電子同士の相互作用がクーロン相互作用という形で既知であったとしても、集団としての電子の振る舞いを正確に記述するのは絶望的に難しい。そこでは、個々の集積から想像されるのとはまったく別の、非常に多彩な現象が実現される。

いわばこれは秩序の自律的形成とも言える。著者は人工知能研究におけるコネクショニズムを指して、「ハイエクが、この理論をコンピューターも脳科学もなかった時代に、ほとんど『深い思考』だけで創造したのは驚くべきことである」と述べているが(p.83)少なくとも物理学的にはありふれたモチーフである。

凝縮系物理の研究を、新しい古典(New Classical)派の理論に対比させて みるのは興味深い。新しい古典派の経済学では、いわば、均衡理論というマクロ理論から、それを実現するようなミクロなダイナミクスが導かれる格好になっている(逆も真である)。その結果導かれる個々のプレイヤーの振る舞いは、通常、我々が想定する個人とは大きく乖離する。それが「非現実的」だとの批判がこれまで頻繁になされ、埋めがたい方法論的対立が存在するようである。新しい古典派にとっては、「仮説が現実的かどうかはどうでもよい。重要なのは、その仮説から導かれる結論が実証データに合うかどうかだ」(p.116)。

このあたりの議論は、経済学のセクショナリズム的傾向を示して興味深い。物理学でも同様のことはよくある。たとえば「重い電子系」という用語がある。電子の質量は基本的な物理定数のひとつで、それが重くなったり軽くなったりということはありえない。電子が重い、ということの主旨は、「もし電子の質量を可変なパラメターだと想像してみると、あたかも質量が重い電子があるように見える」ということに過ぎない。物理学ではそのように可変な変数のように扱われる質量を「effective mass」などと呼ぶ。effectiveというのは、「真実はそうでないかもしれないが、実効値としてはそういうもの」という語感である。

この用語を使えば、新しい古典派の人間像は、いわば effective personないしeffective interactionからなるものである。それは間違いなく現実の人間の振る舞いとは異なるが、現実を説明する限りにおいて、理論モデルとして是認されるのである。しかしあくまでそれは現象論(現象の真のメカニズムの解析を省略して現象を記述しようとする理論)に過ぎず、その有効範囲は限定的である。物理学では「現象論」という言葉はしばしば軽蔑的に使われるが、有効範囲が限定的であることを忘れなければ、工学的にはむしろより重要な武器となる。その価値は現実をどのようによく説明するかで判断されるのであり、有効質量を導入したこと自体で神学論争のようなことが起こることは少ない。


More is different

20世紀初頭の量子力学誕生は、古典力学の唯一絶対性を否定したが、量子力学が登場したからといって、古典力学が無効になったわけではない。同様に、当初の量子力学は、たとえば相対論的量子力学の近似理論に過ぎないが、だからといって、シュレーディンガー方程式は無効ということにはならない。自然現象には異なる階層があり、それぞれの階層において最適な方法論がある。おそらく経済現象もそうであろう。経済学の困った点は、異なる学派同士の関係がはっきりせず、それぞれの有効範囲も不明であるという点である。

この点を考える上では、1977年にノーベル物理学賞を受賞した大御所 P. W. Anderson の1972年のエッセイが示唆的である*。この短いエッセイでAndersonは、自然現象には階層性があり、素朴な要素還元主義は実り多い視点ではないと指摘した。more is different というタイトルの通り、下位の構成要素が多数集まると、個々の要素を見ているだけでは思いもかけない多彩な現象が現れる。だから、上位の階層は下位の階層に還元することはできず、階層に応じた別の方法論が必要である。これは物理学者には改めて言うまでもない当たり前のことだが、物性物理よりも、物質の究極の粒子を追い求める理論の方が高尚だ、というような一部の風潮にひと言言いたかったのであろう。
* P. W. Anderson, "More Is Different," Science, Vol. 177. No. 4047, pp. 393 - 396 [link to pdf]

若きハイエクがテーマとした知識の分業についても、おそらくこのような視点が必要であろう。経済学の分野では、ハイエクの自律分散の思想には、最近でもなおたとえば次のような批判が浴びせられる。
Yet this is surely an abusurd thesis. First, if the centralized use of knowledge is the problem, then it is difficult to explain why there are families, clubs, and firms, or why they do not face the very same problems as socialism. Families and firms also involve central planning. (Hans-Hermann Hoppe, "Socialism: A Property or Knowledge Problem?," The Review of Austrian Economics, Vol. 9, No. 1, pp.143-49, 1996.)

この批判は、家族や会社組織と、社会全体との間の現象の粒度の違いをまったく考慮に入れていない。そもそも民主主義ですらない家庭や会社組織の中では中央管理が自然で必然であるが、社会の粒度ではそうではない。それがMore is differentということである。しかしこの概念を経済学者たちが理解するには、まだ時間がかかりそうである。サミュエルソンは古典力学をモデルにして彼の新古典派総合の理論を作ったそうだから、理論的モチーフにおいてはまだ2世紀ほどギャップがあるのかもしれない。



ハイエク ── 知識社会の自由主義 (PHP新書)


  • 池田 信夫 (著)
  • 新書: 224ページ
  • 出版社: PHP研究所 (2008/8/19)
  • ISBN-10: 456969991X
  • ISBN-13: 978-4569699912
  • 発売日: 2008/8/19
  • 商品の寸法: 17.2 x 10.6 x 1.4 cm  

2010年5月5日水曜日

「生命保険の『罠』」

日本生命の営業を十数年勤め、現在は保険のコンサルティング機能をウリにする代理店の取締役である後田(うしろだ)亨氏による保険の素人向け解説。「解説」と言っても羅列的なものではなく、投資対効果の観点からいかに馬鹿げた保険が多いかを力説してくれる。基本的に話は単純であり、生涯に支払うお金の総額をまずは計算し、それを払う価値があると思えば払えばいいし、それが不要だと思えば保険に入らなければよい。しかし問題は、「生涯支払う金額」の計算すらできない加入者が多すぎることである。

本書に記載されているように、日本は先進諸国の中で保険に支払う金額が異様に高い。

万が一の場合に備える保険金の額にしても、ドイツやイギリスではほぼ年収と同じくらい、アメリカでは年収の2年分というデータがありますが、日本の平均は年収の5倍以上なのです。4人家族の保険料負担の平均は、年額で50万円を越えます。(p.75)

これにはさまざまな文化的、社会的背景があろう。しかし地縁血縁でがんじがらめの田舎暮らしならいざ知らず、都市部に住んでいるサラリーマン世帯では、保険の選択はほぼ自由であろう。少なくとも私の場合はそうである。だとすれば、一体この、月2万円以上を払い続けている人たちは、何を考えているのだろう?

著者は明快に、ほとんどの人はうわべの言葉にだまされているだけだ、と指摘する。
  • 保障は一生涯続き、保険料は上がることはありません
  • 60歳から、保障はそのままで保険料が半額になります
  • 60歳から、保障はそのままで保険料がゼロになります
これらの売り文句は、何のことはない、分割払いの比率を年齢ごとに調整しているだけのことで、支払う保険料の総額でみれば何も変わらない。「お祝い金」などと呼ばれる一時金についても同様であり、保険料の総額で見れば、何の「お祝い」にもなっていないことは明らかだ(p.43)。

保険加入の是非を判断するためには、支払い総額の他に、万一の事態の確率を把握することが必要である。これに至っては、具体的に計算するだけの能力がある加入者はほとんどいないに違いない。著者は「降水確率10%未満でも傘は必要?!」と問うが、雨が降るか否かと、人が死ぬかどうかが、「確率」という共通の用語で記述できるということ自体、一般人には理解のはるか外であろう。結果として、あたかも、まるでなるべく不合理な保険に入ることが、家族に対する愛の証であるかのような状況になっているわけである。

それはともかく、たとえば、死亡率やがんの罹患率、あるいは高度障害にかかる確率は公開されているデータから計算可能である。たとえば、ここに、10万人あたりの死亡率の比較がある(「死亡率」などで検索をすれば一瞬で見つかるサイトだ)。それによれば、人口10万人当たりの癌(悪性新生物)による死亡率は、10万人当たりにして250人程度、割合にすれば0.25%である。年に0.25%の割合でガンになってゆくとすれば、20年後には5%の人がガンになるということになる。したがってこの時、「元が取れる」ためには、支払う金額が100万円なら2000万円、500万円なら1億円のリターンなければならない。なぜなら、
1億円×5%=500万円
だからである。しかしそのような高額な支払いを約束する保険は絶対にない。

しかも国民皆保険制度(という世界に誇るべき)制度を取る日本では、平均的な年収の人が保険適用の治療を受けた場合、月に8万1000円を超える自己負担分は払い戻されるという制度がある(p.69)。任意保険なしにこれだけの保障があるのである。このことから著者は、公的健康保険に加入している限り、「50歳くらいまでに100万円程度の貯金ができていれば、がんも、医療費の面ではそれほど恐れることはない」と明快に述べている(p.70)。当然の結論である。私には、公的な健康保険に加えて、上記のような決してROI(Return-on-Investment。投資額に対する戻ってくるお金の割合)が1を超えない医療保険に、何万円も払う人の気持ちがわからない。

本書の7章には、「プロが入っている保険」として、保険を売る当事者たちが実際にどういう保険に入っているか書かれていて参考になる。著者が日本生命に勤めていた時代、上司たちは、決して自社の売れ筋商品には入らず、(バブル期に販売されていて今はもうない)高利回りの養老保険と、会社のグループ保険に入っていたという(p.164)。定量的にROIを計算するとしたら、当然すぎる行動であろう。

そもそも、本書冒頭に記されているように、保険というのは、保険料に含まれている手数料の割合が30%から50%にも上るような商品である(p.24)。投資信託の手数料はもろもろ含めてもトータルで高々2-3%だから、これは相対的には異様に高い。手数料が高くても、支払われるリターンの期待値が高ければ問題はないのだが、ほとんどの人は生涯にわたって支払うべき金額の計算をすることはないし、万が一のことが起こる可能性がどの程度か考えることもない。ニッセイに献金するくらいならまだ国内のことだからいいのかもしれないが、各人の知的怠惰の集積が、国富を外資系保険会社に献上する結果になっている現状は、何とかした方がいいと思うのだが。



生命保険の「罠」 (講談社+α新書)
  • 後田 亨 (著)
  • 新書: 192ページ
  • 出版社: 講談社 (2007/11/21)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4062724685
  • ISBN-13: 978-4062724685
  • 発売日: 2007/11/21
  • 商品の寸法: 17 x 11.8 x 1.8 cm

「あさま山荘1972」

連合赤軍のNo.3で、永田洋子とともに死刑判決を受けた坂口弘の回想記。上巻では坂口の生い立ちと、革命運動に参加する経緯、同志殺しの惨劇と、あさま山荘篭城事件に至る経緯が記述されている。下巻があさま山荘事件と同志粛清に至る詳細、続巻には同志粛清の詳細と、逮捕後の出来事がまとめられている。連合赤軍関連の書籍では、おそらく最も詳細に事実を記述している本だと思われる。3冊組で長いが、印刷はきれいで文字も見やすく、坂口のビビッドな自分史と重ねあわせて書かれていて飽きさせない。連合赤軍事件関連書籍の決定版と言える。

私がこの本を買おうと思ったのは、佐藤優氏のベストセラーになった「国家の罠」第6章に、「三十一房の住人」として坂口らしき政治犯が好意的に紹介されていたのがきっかけであった。死刑囚という身にあって坂口は、礼節を忘れず非常に厳しく身を律し、しかも拘置所の住人たちの待遇改善のために言うべきことは言うというスタンスで、囚人たちの間からはもちろん、拘置所側からも尊敬を集めている由である。そして私も、読み始めたこの坂口の回想記の尋常ならざる生真面目ぶりに触れ、この特異な事件に引き込まれていった次第である。

坂口は、森恒夫と永田洋子が一緒に逮捕された後、すでに敗残兵となっていたとは言え、連合赤軍のNo.1となり、あさま山荘であの有名な銃撃戦を繰り広げた。同志殺しが判明するまでのわずかな期間、一時は左翼学生のヒーローであったようだ。

政治党派の起こした立てこもり事件のはずなのに、何を要求するわけでも、何を主張するわけでもないこの事件について、私は長い間怪訝に思っていた。本書を読むと、彼らの目的が銃撃戦の実行そのものにあったことがわかる。彼らはそれを「殲滅戦」と呼び、非常に重要視していた。しかしわずか数丁の銃と、軍人でもない数名の学生で一体何ができるのか。今となっては非常に理解しがたいが、彼らの情勢認識では、日本は革命前夜で、彼らの少数の蜂起が起爆剤となり連鎖反応的に社会転覆が起こる、と考えていたらしい。


本書における坂口の最大のテーマは、同志殺しのメカニズムを解明することであった。赤軍派と合同して連合赤軍ができた後は、独裁者として君臨していた森恒夫が「共産主義化」論なるもののを根拠にして、「総括」と呼ばれるリンチを主導したと、この事件のすべての被告が一致して証言している。

この「共産主義化」というのは、強大な権力に立ち向かう以上、個々の革命戦士は鉄の規律と肉体を持たねばならない、というような超精神主義のことである。マルクス主義というのは史的唯物論を前提とするはずである。つまり、経済のマクロな運動法則がその時その時の時代の平均的な精神のありようを規定する、というもののはずである。赤軍派なり革命左派なりという党派は、本来、マルクス主義に依拠するはずなのだが、山岳ベース事件に関する限り、マルクス主義とは無関係のように見える。このような根本的というか基本的な部分で不可解さを含み、それに誰も気づかないという事実自体、1970年前後のインテリが陥っていた病理を示して余りある。

坂口は森のロジックを解明するために刻苦の数年を費やし、同志殺しが森の理論の必然であるとの彼なりの理解に到達している。しかし森の直接的な指導下に入る以前に、坂口の属した革命左派というセクトは、2人の同志を殺害しているのである(印旛沼事件)。印旛沼事件に関しては、当時はまだ赤軍派という他セクトのリーダーだった森の「殺るべきだ」という教唆が直接の引き金だったにせよ(上、p.337)、最終的には最高指導者永田洋子と坂口の決断で処刑が決められている。この事件はおそらく、森の理論云々以前に、哲学なき組織の悲劇と、指導者の器でない者が組織を指導者に頂いた組織の悲劇が凝縮されているように思う。

坂口の属する革命左派は、川島豪というカリスマ性のある指導者により指導されていた。坂口は大学時代に川島に出会い、自身認めているように、川島をほとんど崇拝するようになる。それは思想が持つ論理的必然性というよりは、カリスマに跪く宗教的熱狂があるばかりである。実際、坂口は、オウム真理教事件に際して、当時の自分と林泰男を対比して次のように述べている。
僧侶の林さんと左翼の私とは、住む世界が異なりますが、それにもかかわらずお互いによく似た傾向があることに気づかされます。それは、カリスマ性をもつ指導者への帰依です。かつての私は、この傾向が人一倍強い人間で、恋も及ばぬほど熱烈に指導者を愛し、忠誠を誓い、この人のためなら死んでもおしくないとまで思っていました。
(1996年4月24日朝日新聞夕刊。「1969-1972 連合赤軍と『二十歳の原点』」所収。)
 
坂口はかつて、朝日新聞の短歌コーナーである「朝日歌壇」への常連投稿者であり、歌集も出版されている。たぶん1990年頃、私は朝日歌壇に掲載された坂口の短歌を偶然目にしたことがある。何かリンチ事件の後悔を歌った歌だと記憶しているが、「事件そのものを知らないと鑑賞のしようもない」と、やや突き放した印象を持ったのを覚えている。しかし団塊の世代にとっては、この事件は、ある意味青春を象徴する特別な出来事だったのだろう。坂口が主導してきた数々の事件、とりわけ同志殺しへの関与に関しては、いかなる意味においても正当化することはできないが、それが純粋な魂の所産であったことは、本書によりはっきりと理解できる。美しい理想を思って走り抜けたその先に、完璧な絶望だけが待っていたとは。これほど痛ましい物語を私は知らない。
 

あさま山荘1972〈上〉
  • 単行本: 350ページ
  • 出版社: 彩流社 (1993/04)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4882022524
  • ISBN-13: 978-4882022527
  • 発売日: 1993/04

あさま山荘1972〈下〉
  • 単行本: 308ページ
  • 出版社: 彩流社 (1993/05)
  • ISBN-10: 4882022532
  • ISBN-13: 978-4882022534
  • 発売日: 1993/05

続 あさま山荘1972
  • 単行本: 318ページ
  • 出版社: 彩流社 (1995/05)
  • ISBN-10: 4882023385
  • ISBN-13: 978-4882023388
  • 発売日: 1995/05

「危うし!小学校英語 」

英語教育の効果についての実証的研究に基づいて、小学校英語導入政策の拙速ぶりに疑問を呈する本。小学校英語反対派は頑迷な国粋主義者ばかりかと思えばさにあらず、著者は英語教育の専門家であり、NHKテレビの英語講座でもおなじみである。英語教育業界の住人であれば、英語の授業時間の増大は英語教育業界の領土拡大につながるので、基本的には喜ぶべきことのはずだ。にもかかわらず、文字通り全身全霊を傾けて著者は小学校英語に反対する。これはよほどのことと言わざるを得ない。

問題の所在は、冒頭の第1章を読んだだけでも十分に明らかになる。小学校で英語を学んだ者と学ばない者の間に、英語力について有意な差は見られないという実証データが、すべてを語っているからである。
  • 日本児童英語教育学会が、私立の中高生849人の調査を行った。その結果、小学校で英語を学んだ生徒とそうでない生徒との間に、英語の発音・知識・運用力において有意な差は見られないことがわかった(p.12)。
  • 国際理解教育の研究開発校に指定された公立小学校で週1時間英語を学んだ子供とそうでない子供とを対象に、中学1年生の冬に英語力を調査した。その結果、音素識別能力、発音能力、発話能力、のいずれについてもまったく差が見られなかった(p.13)。
小学校では遅すぎただけではないのか?、という批判を受けることを見越して、著者は、いわゆる「臨界期説」、たとえば「10歳までに外国語を習い始めないと手遅れだ」というような説に確たる根拠はないことを指摘する。むしろ話は逆であり、英仏のバイリンガル国家であるカナダでの実証研究によれば、母語を確立する前に外国語に触れてしまうことには弊害も多いことがわかっている。

だとすれば、小学校英語には投資の価値はない。まともな為政者であればそのような結論になりそうなものだが、そうはならない心理的・政治的背景を分析し、あるべき外国語教育について述べるというのが本書のテーマとなっている。

本書第2章では、小学校英語を強力に推進する中教審・文科省の動きの背景と、英語教育の専門家たちがまとめた「小学校での英語教科化に反対する要望書」の内容が紹介される。繰り返すが、英語教育の専門家たちが反対しているのである。たとえば、理科を小学低学年から教える始めることに物理学者のグループが反対することはありえないので、話の深刻さは推して知るべしである。

そして、中教審・文科省の拙速と思われる動きの背景には、親の強い支持があると指摘する。実際、当事者たる文科省は、2004年に、小学校4年および6年生の親と教員に1万人規模のアンケートを実施した。その結果、小学校での英語教育の導入に9割以上の親が肯定的な反応を示した(p.82)。しかし親の方も、きちんと考えてそう言っているわけではない。88ページ以降、親の英語に対する苦手意識と、教育に対する皮相な理解が生む子供たちの悲惨なエピソードが続き、暗澹たる気持にさせられる。

第3章は小学校での英語教育を仮に実施するとして、どのような問題が実際に生じうるかを、専門家ならでは知見を交えて詳しく説明している。素人同然の外国人が教えることの困難や、英語産業の業者の草刈場と化する危険性を知れば、小学校英語導入に慎重論が出てもよさそうなものだが、多くの親はそれを知りたいとも思っていないようだ。確かに、子育て中の親の実感としても、周囲の雰囲気はそのようなものであり、多くの親は、仮に本書を教材として与えられても、理解することすらできないだろう。4年生大学を卒業した知的階層に属する人たちでもそうである。それが日本の悲しい現実である。

最後の4章において鳥飼教授は、「世論」や、それを扇動するマスメディアにいわば戦いを挑む。「日本の英語教育は文法偏重である」(したがって役に立たない)という意見は、おそらく圧倒的多数の大人が信じている言説であろう。しかし今から20年前、少なくとも1990年以降に英語教育を受けた世代に関しては、これは完全に誤っている。1989年の学習指導要領の大改訂により、オーラルコミュニケーション重視に大転換が起こったからである(p.152)。

そうして、過去20年のデータを使って、上記の大転換が、「リスニングでさしたる成果を挙げないばかりか、文法と読解力の低下をもたらした」(p.167)ことを実証する。この点については、「TOEFL・TOEICと日本人の英語力―資格主義から実力主義へ」にも詳しい。「ゆとり教育」同様、客観的データは、英語教育におけるオーラルコミュニケーション重視政策が失敗に終わったことを証明している。小学校英語導入政策が、文法軽視・会話重視の動きの延長線上にある以上、これもまた失敗に終わることはほとんど確実である。誤った都市伝説を扇動するマスメディアの罪は非常に重いと言わざるを得ない。

ではどうすればいいのだろう?本書194ページ以降に、著者による英語教育改革案が述べられている。結局、英語教育について語ることは、異文化の共存について語ることであり、共存に伴うさまざまな問題をうまく処理するために、何を学ぶべきか考えることだ。この観点から、著者は、小学校では、母語をベースにして、異文化への開かれた心の涵養とコミュニケーション能力の育成を目ざすべきであると解く。英語を本格的に学ぶのは中学生からでよい。しかしそれはオーラルコミュニケーション重視というよりは、語彙や文法のような基礎事項を確実に教える従来型のカリキュラムに似る。高校からは、英語自体の基礎学習に加えて、論理的な一貫性を持った主張をするための能力の育成に力を注ぐ。

著者の提案は非常に説得力あるものであり、「国際化」の必要を主張する産業界を始め、教育関係者の多くにも受け入れられることだろう。本書の提言が、社会的に力を持つようになることを願う。

小学校英語をめぐる問題は、我々日本人が、どういう大人を理想とするかという問題でもある。トロント大学のJim Cummins教授の研究の引用として語られる次の言葉は実に示唆的である。
カミンズ教授は、(略)、日常生活で使う「会話力」と学校で教科を学ぶための「言語学習能力」とは異なるという結果を出しています。また、言語が違っても、母語と第二言語は深層部分でつながっており、双方が影響しあいながら発達していくこと、読み書きなど学習言語には母語の習得が大きく影響するなど、重要な指摘をしています。(p.25)
小学校英語必修化の裏には、これからは「国際人」となることが必要で、「会話力」さえつけばその「国際人」になれるはずだ、という素朴な前提があるように思われる。しかし、高い「言語学習能力」に裏打ちされた深い専門知識なしに、国際的に意味ある内容を語ることはできない。当たり前のことである。この点に関する思考の貧困は、「先進国」にキャッチアップすることだけを目標にしてきた日本の指導者の心象風景そのものなのかもしれない。「語られるべき内容」は、誰かが(おそらく「欧米先進国」が)教えてくれる。そのような仮定は明示的に否定せねばならない。

我々は一方で、「語られるべき内容」を創造する能力が、すべての人に備わっているわけではないことを認めなければならない。鳥飼教授の提言に付け加えることがあるとすれば、異文化の利害の対立する場でリーダーシップを取れるような人材を育成するための戦略的エリート教育の必要性である。本書でも、自称「英語通」の宮沢喜一元首相の物悲しいエピソードが紹介されているが(p.184)、これを「物悲しい」と思うかどうかという点に関してすら、何らかの合意が形成されるためには、まだまだ長い時間がかかりそうである。


危うし!小学校英語 (文春新書)
  • 鳥飼 玖美子 (著) 
  • 新書: 223ページ
  • 出版社: 文藝春秋 (2006/06)
  • ISBN-10: 4166605097
  • ISBN-13: 978-4166605095
  • 発売日: 2006/06
  • 商品の寸法: 17.2 x 11 x 1.4 cm

2010年5月4日火曜日

「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」

若いときに天才的な業績を残し、晩年は精神を病んだ数学者の娘の苦悩の物語。アカデミアで最高の頭脳により追求される真理の美しさと、その裏にある残酷さに思いを致したことのある人なら、おそらくこの映画に感じるものはあるだろう。精神を病んだ数学者、という設定にはジョン・ナッシュを描いた "A Beautiful Mind" を思い出させるが、主演のグウィネス・パルトロウの天才的な演技とあいまって、こちらの方が映画としてはずっと面白い。

物語は偉大な数学者・ロバートの葬式から始まる。ロバートが63歳で死ぬまでの5年間、主人公キャサリンはロバートの身の回りの世話をした。ロバートは20代の時に3つの分野で最高の業績を挙げ、シカゴ大学数学科に迎えられた。しかしおそらくは40代で精神の変調が深刻化し、その後20年間は一進一退の状況で時を過ごした。

父の精神状態がしばらく安定していたことから、キャサリンは父の教えるシカゴ大学を避け、近郊にある別の名門・ノースウェスタン大学の大学院に進学することを決める。そこで数学科の才能ある学生として勉強をしている最中、彼女は父の異変を知り、家に急遽戻る。そこで彼女は、躁状態の父を発見する。大発見をしたと興奮する父のノートを見たキャサリンは、父の精神状態が極度に悪化しており、自分が面倒を見る必要があることを悟る。彼女は大学院を中退せざるを得なかった。

大学院生として研究の世界の入り口にいた彼女は、自分で自分の価値を世界に刻み付けなければならない存在だった。厳格な意味において、研究成果を世に問うとは、これまでの人類すべての誰よりも自分が優れていると主張することに他ならない。すべての人類に対する相対優位をもって、絶対的価値の証明とするのである。彼女をそれをすべくあがいていた。

しかし大学院をやめた彼女には、もはや父の世話をすることでしか自分の存在を証明する手段がなかった。逆に言えば、偉大な父の世話をすることで、自分の存在を実感できたとも言える。しかし父が突然死んだ後、キャサリンは、再び自分とは何かを自分に問いかけざるを得なくなる。

そこから彼女の苦悩が始まる。彼女には自分の存在証明を行う必要があった。この映画の原題"Proof"に対して、邦題の「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」というのは、でたらめな邦題が跋扈する映画業界では、奇跡的によくできたタイトルと言えよう。

彼女にとっては、父のかつての学生でありかつ父の崇拝者で、今はシカゴ大学に勤める数学者・ハロルドとの間の恋愛関係は、自分の存在を確かめるための確かな土台になるように思われた。一旦は永遠に思えたその関係の上に、彼女は、1冊のノートの存在をハロルドに教える。そこには父の介護をしていた5年の間、時折明晰さを取り戻す父の助言を受けながら、彼女自身が成し遂げた仕事が書かれていた。それを見たハロルドはその価値を直ちに見抜き興奮する。リーマン予想の証明と思しき画期的な結果が記されていたからである。

しかしハロルドも、キャサリンの姉のクレアも、彼女がそれを書いたとは信じず、偉大な父の手によるものであろうと彼女を疑う。父と生きた数年の証としてのその証明が、むしろ自分の存在への反証になったのである。これは彼女には衝撃的な出来事であり、彼女は固く心を閉ざしてしまう。

ハロルドは、数学科の専門家の協力を得て、数日間かけてそのノートの証明の内容を検証する。論理展開は奇抜なものであったが誤りは見つけられず、ハロルドは証明の正しさを確信する。さらに、使われていた技巧が90年代の新技術であったことなどから、それが父ロバートではなくキャサリンの仕事であることを確信する。

ハロルドはキャサリンの許に走り、彼女に許しを乞う。しかし彼女は頑なにそれを拒否する。彼女の心理は複雑だ。父への尊敬と否定、自分の数学的才能への自負と否定、これらアンビバレントな心情のネガティブな側は狂気への恐怖へと直結しており、平衡点を見出すのは容易ではない。彼女にとっては、ハロルドとの曇りのない信頼関係だけが、混沌の海を渡りきるための唯一の手段のように思われたのだ。

最後にキャサリンは、ノートに記した証明を、肯定的に自らのものと認める以外に、自分の生きる道はないことを悟る。それは偉大な父の存在への反証になりえるが、父はもういない。父と一体化していたかつての自分とは決別しなければならない。証明を自分のものと証明することで、自分の正常さと生きた証を立てなければならない。キャサリンは姉クレアとの同居を拒絶して姉の許を去る。映画は、シカゴ大学の美しいキャンパスで、ノートの内容をハロルドに説明し始めるシーンで終わる。父と暮らしたシカゴの家には常に闇が付きまとっていたが、それと対照的に、キャンパスは明るく緑が軽やかだ。

数学の定理といういわば絶対的な正の価値を、狂気という負の絶対価値と対比させ、それに人間同士の相対的な信頼関係の脆さについての絶望と希望を螺旋状に絡ませるこの映画のプロットはとても美しい。常人には理解しがたい精神のカオス的な動きを完璧に演じきったグウィネス・パルトロウの演技は驚異的である。"A Beautiful Mind" と比べれば、統合失調症や数学の研究的内容の描き方など、やや粗い点もなくはないが、全体のストーリーは、それを補って余りある見事な流れを形作っている。出色の出来だと思われる。

なお、上記の文章は、2010年3月にWowowで放映された日本語字幕版を元にしている。


プルーフ・オブ・マイ・ライフ [DVD]

  • 出演: グウィネス・パルトロウ, アンソニー・ホプキンス, ジェイク・ギレンホール, ホープ・デイヴィス
  • 監督: ジョン・マッデン
  • 形式: Color, Dolby, Widescreen
  • 言語 英語, 日本語
  • 字幕: 日本語
  • 画面サイズ: 1.78:1
  • ディスク枚数: 1
  • 販売元: アミューズソフトエンタテインメント
  • DVD発売日: 2006/08/25
  • 時間: 103 分

2010年2月28日日曜日

SHARP LED電球 昼白色相当 60W

シャープの発光ダイオード(Light Emitting Diode; LED) 式電球。白熱電球に置き換えが進んでいる蛍光灯電球の、次世代の電灯と言われている。

実売3000円程度で、普通100円くらいで売られている白熱電球が30個も買える値段だが、消費電力が1/8、メーカーによれば寿命が40倍だそうだから、経済合理性からすれば買いである。蛍光灯電球に対しても寿命において3倍、消費電力においても3-4割有利と言われており、将来的にはLEDへの置換が進むはずだ。

上記写真の60ワット型電球の消費電力はわずかに7.5Wである。ほとんど豆球と同じ程度であり、その程度なら、電子レンジの使い方ひとつで消えてなくなるだろう。これだけ消費電力が低いと、電灯という器具そのものに対する考え方を変えてもよさそうだ。夜間でも、就寝中以外は、家の中は明るくしている方がいい。各部の電灯の入り切りは気にせず、まるで浮世絵のように家のすべてがクリアだと、家も広く感じるし、気持ちもしゃきっとするというものだ。

余談だが、 私は薄暗い欧米のホテルが苦手である。全体照明をつけず、部分部分を、それも白熱電球(かそれと同じ色の蛍光灯電球)で照らす感じだと、もはや文字を読む気にはなれない。食事をしていても寂しい。生産的なことを何もする気にならず、寝るまでの時間は、明日への希望のための前向きな時間というよりは、今日から逃避するための後ろ向きの時間になってしまう気がする。それが文化の違いだと言われればその通りで、文句を言うつもりはないのだが、少なくとも日本のホテルでは、間接照明にあわせて全体照明も配備してほしいものである。

その原理からして、LED電球でわざわざ色温度を下げた白熱電球色を買うのは愚かである。従来の白熱電球の素朴な置換というより、電灯に関する既成概念を柔軟に変えた方がいい。


SHARP LED電球 昼白色相当 60W E26 DLL601N
  • シャープ
  • メーカー型番:DLL601N
  • サイズ:最大径60×全長114mm
  • 本体重量:168g
  • LED光源:昼白色相当
  • 色温度:5,000K

パナソニック ドラム式洗濯乾燥機 NA-VR5600

2009年9月26日発売のドラム式洗濯乾燥機。日本製白物家電のおそるべき進歩と完成度を象徴する逸品。

かつて私も衣類乾燥機付きのアパートに住んでいたことがあった。その時の感想は、これは生活の質の低下を我慢して使う機械だな、というものであった。乾燥機というのは要するにドライヤーを連続運転するようなもので、運転中は熱と湿気がすごい。とても夏は使えたものではない。関東では梅雨時でも苦しい。その上、靴下などは長さにして半分くらいに縮んでしまう。電気代も相当なものだ。基本、パジャマとか、家着とか、あるいはGパンみたいな傷みが気にならないものを、生乾きで取り出して使うものだという認識だった。

今回、家事合理化の観点で洗濯乾燥機の購入を検討した時も、かなり否定的な気持ちで調査を始めたのだった。しかし主要メーカーのWebサイトを見て、速やかに考えを変えた。東芝と松下が「ヒートポンプ式」の洗濯乾燥機を出しているのを知ったからである。理系の基礎的トレーニングを受けた人であれば、この言葉だけから、ただならぬ技術革新の可能性を直ちに感じることだろう。

熱力学的に正しい意味にこのヒートポンプという用語が使われているとすれば、それが意味するのは、この新型乾燥機が、ドライヤーかけまくり式の乱暴な設計ではなく、除湿機を基本とし、水の気化熱なども考慮に入れて、熱と、電気的・力学的エネルギーの絡み合いを理解した上で設計されたことを意味する。実装の問題も非常に難しかったはずだ。エアコンを室外機含めて丸ごと洗濯機の中に入れているようなものであり、しかも、ドラム式洗濯機に付きものの制振の課題を高水準で解決しなければならない。大げさながら、ついに日本の家電メーカーの技術者はそこまでできるようになった、などと感銘を受けながらカタログをめくったものである。

と、ここまで書いたところで、松下の技術者による解説を発見した。

 
パナソニック社のWebサイトの画像を転載)


すべてはここに書いてある通りで、この乾燥機は、過去の方式の欠点のほとんどすべてを克服している。部屋の温度や湿度が上がることはないし、靴下などもほとんど痛まない。その上、洗濯においても改善は顕著で、我が家で使っていた(旧式の)縦型全自動洗濯機に比べ、体感的には、使用水量は1/4くらい、洗剤使用量は半分くらい、汚れ落ちは5割増しくらいである。容量が増えたのもうれしい。

現実的な使い方としては、乾燥に切り替わったなと思ったら一度止め(任意のタイミングで一時停止できる)、バスタオルやズボンなど大きなもの、シャツなどのシワになりやすいものは取り出し、半乾きのまま吊るし干しにするのが良いだろう。たとえば子供が小さい家庭など、洗濯点数が多い家庭では、細かいものをそのまま乾燥まで回すだけでも物干しと取り込みの手間は8割方減り、巨大な労力削減になる。

本洗濯乾燥機についての非常に完成度の高いレビューが家電Watchにある(その1その2その3)。これと、パナソニック社の解説を合わせれば、大体のことがわかるはずである。最上位機種には、除菌・脱臭・洗濯槽のカビ防止に使える「ナノイー」という機能がついている。この機能を抜いた下位機種も3万円程度の価格差で用意されており、好み次第だ。「ナノイー」なるものの素性はまだよく理解していないが、コートやジャケットのにおい取りには実際使える。さっと除菌してまた明日、というのは精神衛生上よいので、個人的にはよく使っている。

他社製品との比較については、最新機種ではないが、日経トレンディ誌2009年1月号が詳しい。スペック上は、パナソニック、東芝、日立の3社が頭ひとつ抜けている。店頭で見た限りは、アイロン機能を備え、しかもホコリ取りフィルタが本体前面から引き出せる点で日立製がよさそうに思えたが、パナソニック製に比べて幅が数cm大きいのが我が家の場合致命的だった。東芝製はパナソニック製とよく似ているように思ったが、日経トレンディ誌2009年1月号で、生乾きのまま終了となった、とのレポートを見て避けることにした。

実売18万円くらいで若干値は張るが、洗濯物が多い家庭では絶対買いだと保障しよう。なお、縦型洗濯機より床面積が大きくなるので設置場所には細心の注意が必要である。大手の家電量販店なら、無料で設置場所のチェックをやっているようなので利用したい(この意味で通販だと若干不安かもしれない)。

価格.comの該当ページへのリンク

2010年1月10日日曜日

「『金融工学』は何をしてきたのか」


金融工学およびオペレーションズ・リサーチの権威で、多くの教科書のほか『カーマーカー特許とソフトウェア ── 数学は特許になるか』や、『役に立つ一次式 ── 整数計画法「気まぐれな王女」の50年』などの一般向け啓蒙書でもよく知られた今野教授の最新刊。題名から知れる通り、昨今の金融工学悪玉論に反論する、というのが主題であるが、弁明の書というよりは、金融工学そのものの概説書と考えた方がいい。技術的な堅い話に、広い読者の興味を引くような面白エピソードを交えて軽快に語る著者の筆力は確かで、金融工学そのものの概説を「理系風」なスタイルで直接試みた同著者の『金融工学の挑戦』よりも、物語としての読みやすさは増しているように思う。その意味で万人に広く勧めたい。

リーマンショック以後、いわゆるヘッジファンドに象徴されるような、金融工学を駆使した金儲けへの風当たりが強い。今野教授は、経済学の大御所・故サミュエルソン教授が2008年に朝日新聞記者に語ったとされる言葉
「世界経済を破滅の淵に追い込んだ金融ビジネスの不始末の元凶は、米国金融当局の規制緩和と、悪魔的・フランケンシュタイン的金融工学だ」(p.71)
に答える形で、批判されるべきは強欲な人たちの跳梁を放置したシステムであって、金融工学そのものではないと訴える。

上記インタビューに関して、今野教授は記者の誘導もしくは牽強付会があったのではないかと疑っているようだが、大衆向けメディアが反知性主義的なポーズを取ることはよくあることなので、仮にそうだとしても別に驚かない。むしろ私には、研究を生業にするはずの同僚エンジニアから、サブプライムローン問題に関係して、だから金融工学はダメだ(「人間的な」新しいアプローチが必要だ)、と聞かされた時の方が驚きであった。そうして初めて問題の深刻さを認識したのである。

冒頭の第1章で著者は、金融に関するリスクとして次の4つを挙げる。
  • 市場リスク
    株価などの商品価格の変動に関するリスク。いわゆるポートフォリオ理論の守備範囲で、半世紀以上にわたる歴史がある。
  • 信用リスク
    「貸したお金が予定通りに戻ってこないことに伴うリスク」(p.34)。金利の決め方に直接関係する。理論はまだ発展途上。
  • 業務リスク(Operational risk)
    「業務が適正に遂行されないことに伴うリスク」。ATM不具合など。通常の金融工学の守備範囲外。
  • 流動性リスク
    「市場で正常な取引ができなくなることに伴うリスク」。研究はまったく未成熟。
上記から明らかなように、ひと言で言えば、サブプライムローンの破綻は、信頼に足る信用リスクの見積もりがなかったためである。本書第5章では、証券化した住宅ローンの信用リスクの定量的評価が非常に難しいことをまず指摘する。

私がこの商品についで抱いた疑問は、どの程度正確にリスクを推計することができるのか、という点である。デフォルト・リスクは、"連鎖倒産"を無視したうえで、経済情勢に大きな変化がないものと仮定すれば、ある程度推計可能である。難しいのは、満期前繰上返済リスクの計算である。これには、金利水準、経済情勢、雇用状態などが絡んでくるからである。一年先でも難しいのに、30年も先のことまで考えなくてはならないのだから、専門家でなくても、この作業が容易ならざるものであることがわかるはずだ。(p.149)
そうして、「では格付け会社は、このような作業をきちんとやっているのだろうか」と問いかける。格付けをどうやるかは会社ごとに企業秘密とされていて、詳細は不明であるとしながらも、アート(主観)に負う部分が大きいに違いないと述べる。
さて、格付け会社は、住宅ローン担保証券の格付けを請負っているわけだが、その作業は企業の格付けよりずっと難しい。科学には手間がかかるが、アートなら手抜きができる。そしで手抜きの結果が、発行側 ── 銀行と証券会社 ── に有利な結果をもたらすことは眼に見えている。(p.151)

結局問題は、金融工学そのものにあるのではないことは明らかだ。むしろ金融工学の非適用に問題があったとすら言える。「今回の危機は、リスク計量技術(金融技術)が未成熟な段階でこの種の商品が大量に販売され、欲張りな投資家がこれに群がったために生み出されたものである」(p.192)。

それにしても、金融工学が災厄の元か否か、というような立論は、核兵器と物理学、あるいは公害と科学技術、のようなテーマで何度も何度も繰り返されてきたはずのことである。たとえば原子爆弾の悲劇が、相対性理論と量子力学という、成立間もない20世紀の新理論が存在しなければ起こりえなかったことは確かである。ならば、あらゆる物理学文献を焚書にし、あらゆる物理学者を獄につなげば問題は解決するのだろうか。金融工学をめぐる最近の反知性主義的な言説にも同様の愚かさがあるように思える。無教養と思われたくなければ、よく考えてから発言することである。


「金融工学」は何をしてきたのか(日経プレミアシリーズ)
  • 今野 浩 (著)
  • 新書: 208ページ
  • 出版社: 日本経済新聞出版社 (2009/10/9)
  • ISBN-10: 4532260604
  • ISBN-13: 978-4532260606
  • 発売日: 2009/10/9

2010年1月8日金曜日

「金融工学の挑戦 ― テクノコマース化するビジネス」


金融工学という学問分野の成立史と、金融工学の基礎を解説した本。期待値とか分散とかの用語がわかる程度の統計学の基礎知識が必要だが、それさえあれば、マーコビッツ理論CAPMブラック=ショールズ理論、などの基本概念がとてもよく理解できる。仮に専門的な金融工学研究に興味がなくても、金融工学のスターたちの面白エピソードも随所に織り込まれており、読み物としても面白い。サブプライムローンの破綻とそれに基づく大不況のはるか前に出版された本であるが、住宅ローンの証券化とそのリスクについて詳細に説明している点も特筆に値しよう。金融工学入門、というカテゴリの本ではもっともよくできた本である。

先日取り上げた勝間和代氏の『お金は銀行に預けるな』は、マルキールの古典・『ウォール街のランダム・ウォーカー 株式投資の不滅の真理』そのままに、「インデックスに投資せよ」と教える。勝間氏の本の想定読者は一般大衆であり、一般大衆に向けとしては正しいメッセージであろう。素人株式投資よりもはるかに期待リターンが多いと思われるからである。

一方本書は、一般大衆というよりは、金融工学を使いたい、もしくは、研究したい人向けである。そうなると、理論そのものの説明と、それに付随する数式は避けられないし、それを省略することなく説明を試みている本書には、他の似非入門書にはない価値がある。

国の行く末を憂う著者の熱い思いが行間からにじみ出ている点も類書にはない特色である。たとえば第3章「資産運用理論」は、古典理論としての平均・分散モデルとCAPM理論、そしてそれらの限界を説明する章なのだが、分散投資は必要だよね、と語りかける冒頭部分に、さりげなく次のような指摘を混ぜる。

ある研究報告によると、日本の投信の平均的収益率は、長い間日経平均の収益を10%以上も下廻っていたという。(p.48)
これは衝撃的な指摘ではないか! インデックスを10%も下回るというのは、ほとんど商品としての体をなしていない。ことほど左様に日本の金融業界の工学的な技術水準は低かったのであり、世界一の製造業の稼いだ国富を、最低の金融業界が食いつぶしてきたと著者が嘆くゆえんである。

マーコビッツの平均・分散モデル
さて、ポートフォリオの最適設計の基本となる考え方は、マーコビッツの平均・分散モデルである。これは「期待収益率を高くしつつ、収益率のばらつきも抑える」という基準で最適な分散投資が何かを探る。期待収益率を求めるためには、各銘柄の収益率の確率分布がわかっていなければならない。何とかしてそれを求めたとしても、「収益率を一定にしてばらつきを最小化する」という問題は、数式的には2次計画問題と言われ、現代のパソコンをもってしても、銘柄の数が千を越えるくらいになると、汎用のソルバーで解くのは苦しくなってくる。そこでマーコビッツモデルをいかに近似して、簡単に解けるようにするかに努力が払われた。

単一因子近似
その近似モデルで代表的なものがウィリアム・シャープの創始した単一因子モデル(single factor model)である。これは物理学的に言えば一種の平均場近似であり、各銘柄の収益率が、何らかの意味で市場平均に連動していると仮定する。具体的には、
ある銘柄の収益率 ∝ 市場平均ポートフォリオの収益率
のような仮定を置く。切片を含む比例係数は過去のデータから最小2乗法で求められる。この仮定を置けば、マーコビッツの平均・分散モデルを割と簡単に解けるようになる。実際、シャープは、20銘柄程度のポートフォリオを作って、元のマーコビッツ理論の解と、この単一因子近似に基づく解がほとんど変わらないことを示したのである。

ただ、ここに落とし穴があって、
実のところを言えば、これは銘柄数が少ない場合の話であって、100銘柄を越えると、両者の結果はかなり違ってくる。また1000銘柄ともなると、両者にはほとんど類似性がなくなる。しかし、それが明らかになるのは、実際に1000銘柄のモデルが解けるようになった80年代以降のことである。(p.65)
とのことである。この事実が、後年の多因子モデルや絶対偏差モデルにつながってゆく。

CAPM理論
しかし兎にも角にも、シャープの単一因子近似は、マーコビッツモデルを、具体的に解ける形に落としこむという意味で非常に意義深いものであった。しかも、国債のような無リスク資産の存在を前提にすれば、次の定理(2資産分離定理)が導ける。
平均・分散モデルに従って投資を行う投資家は、市場平均ポートフォリオと無危険資産だけに投資を行う。(p.65)
これを信ずれば、TOPIXのようなインデックスに連動するファンドか、そうでなければ短期国債だけに投資するのが最善、ということになる。これが、上記勝間本の種本であるマルキールが依拠した結果である。

その上、
(個別銘柄の平均収益率と無リスク資産の収益率の差)
∝ (インデックスの平均収益率と無リスク資産の収益率との差)
という関係式が成り立つことも示せる。この式の比例係数を β と書く習慣があり、これにちなんでこれをベータ関係式と呼ぶ。ベータが1の銘柄は、市場平均ポートフォリオと同じ振る舞いをする銘柄であり、ベータが2の銘柄は、市場の動向により敏感に反応するハイリスク・ハイリターン銘柄、と言うことができる(p.67)。

ベータもまた、過去のデータから最小2乗法などで決められる。銘柄ごとにベータさえ決めれば、複数の銘柄を組み合わせてそのポートフォリオ全体のベータをほぼ1にすることは比較的簡単である。2資産分離定理によれば、市場平均ポートフォリオが最善だというのだから、投資家がやるべきなのは、ベータが1になるような組み合わせを作ることだけである。

このような技術的裏づけを得て、シャープの単因子近似に始まり、2資産分離定理とベータ関係式というきわめて簡潔な結果に代表されるCAPM(キャップエム; Capital Asset Pricing Model; p.26)は正統派経済学の嫡子として隆盛を極めることになったのである。

CAPM理論の拡張
先に、単一因子近似を、物理学の平均場近似のようなものだと書いた。だとすればより「高次の」近似もまた可能であろう。近似式を複数の因子を含むように改善したモデルを多因子モデル(multi-factor model)と呼ぶ。モデルの複雑化により、最適化問題を解くのはさらに難しくなるが、アンドレ・ペロルドが提案した技巧を使うと、数千どころか、数万銘柄のモデルも解けるようになる由である(p.74)。

一方、(平均収益率を一定にしつつ)分散を小さくする、というマーコビッツのお題自体を考え直す、という方向の研究も可能である。本書では、著者自身が開発した平均・絶対偏差モデル*、平均・下方リスクモデル、などが要領よく説明されている。
* H. Konno and H. Yamazaki, "Mean-absolute deviation portfolio optimization model and its applications to Tokyo stock market," Management Science, 37 (1991), pp.519-531 [link to PDF].

個人投資家はどうすればいいのか
金融工学の諸理論・諸手法を解説した後の第7章第1節は、個人投資家向けの投資ガイドのような趣になっている。著者はまず、経済学的な2つの「常識」について言及する。
  • ランダムウォーク仮説
    株価はランダムウォークするので、株価の時系列に特定のパターンを見出すことはできない。したがってチャートのテクニカル分析は無意味。
  • 効率的市場仮説
    市場は効率的であるので、たとえば多因子モデルで記述されるような傾向は、すでに株価に織り込まれている。ゆえ、ファンダメンタル分析(企業の業績予測に基づく株価予測)は無意味。
マルキールの本の出発点になっているのがこれらの仮説である。しかし最近の実証的な研究によれば、実は、これら二つの常識が必ずしも成り立たないことを示している。たとえば、MITのアンドリュー・ロー教授は、ニューヨーク市場の株式市場のデータに対し徹底的な統計分析を行い、株価のランダムウォーク性と市場の効率性の双方を否定した(p.165-170)。エンジニアの直感としても、誤差分布が実測上は正規分布からずれるのはよくある話だし、効率的市場仮説に至っては、市場という媒質は一様・等方・定常で、その中では常に無限の速度で情報が伝達する、と言っているに等しく、あまりにワイルドすぎる因果律の捨象と言えよう。

しかしながら、クオンツたちに何百億円もの資金の運用を任せられる機関投資家はよいとして、以上の結果を一般投資家はどのように考えればよいだろう。著者の結論が、つまるところ勝間本と大差なく、無リスク資産+投資信託(+気に入った少数の銘柄への投資)、というものになっているという事実は興味深い。十分リスクを管理しつつテクニカル分析を行うためには膨大な労力を必要とするし、ファンダメンタルズの分析によって市場のアノマリーを見出すにも、これまた膨大な時間と労力を必要とする。結局、それらは片手間にやれるようなものではないのである。

本書のその他の内容
長くなったのでこれくらいにするが、本書にはその他にも、デリバティブの価格設定に関するブラック=ショールズ理論(4章)、金利モデル(5章)、証券化とそのリスク(6章)などなど、きわめて有用な内容が盛り込まれている。

特に、第4章にはブラック=ショールズ方程式の明快な導出が書かれていており、新書なのに!と感動したものである。ちなみに、手元にある第5版(2005年5月20日発行)では、p.119の(1)式の上にある at という量の定義が間違っているようだ。正しくは
at = ∂Ct / ∂St
であろう(p.99の「デルタ・ヘッジ戦略」参照)。

また、時節柄、証券化リスクに関する6章も読む価値が大いにあると思われる。信用リスクの評価は一般には難しく、それゆえムーディーズなど格付け機関の格付けも主観に頼る部分が大きいらしいという指摘は、本書出版の数年後に世界を襲ったリーマンショックを思えば実に示唆的である。証券化リスクの評価に関しては、同じ著者の『「金融工学」は何をしてきたのか』という本に詳しく議論されているので、筆を改めて紹介したい。



金融工学の挑戦―テクノコマース化するビジネス (中公新書)
  • 今野 浩 (著)
  • 新書: 225ページ
  • 出版社: 中央公論新社 (2000/04)
  • ISBN-10: 4121015274
  • ISBN-13: 978-4121015273
  • 発売日: 2000/04

2010年1月5日火曜日

「数学者の言葉では」


国家の品格』であまりにも有名になってしまった藤原正彦氏が、時事放談的雑文を書き散らすようになる以前、エッセイストとして最も輝いていた頃の珠玉のエッセイ集。題材は多岐にわたるが、ここでは「学問を志す人へ ─── ハナへの手紙」というエッセイを紹介したい。

これは著者が助教授として滞米中に、ハナという女子大学院生から受け取った手紙をめぐるエッセイである。手紙は、研究者としての入り口で逡巡する若者の苦悩にあふれるものであった。

ハナは著名な物理学者を父に持つ成績抜群の大学院生で、数学を専攻していた。日米問わず、大学院生はつらいものである。研究の最前線で繰り広げられる戦いに参加するためには、最低限、その戦いの前提知識を身につけなければならない。数学のような理論系の学問では、それはひたすら論文や専門書を読んでいくことだ。世俗的なすべてを捨てて、全精力をそれに注ぎ込まなければならない。その傍らで、学生から研究者への飛躍の準備もしなければならない。既存の学問的成果を理解するだけでも苦しいのに、それを越える何かを求められるのである。しかもそれらすべての作業を、周りの院生との競争の中で、学部を出てからのわずか2-3年で一段落つけることを要求されるのだ。過酷である。

普通の感受性を持つ若者であれば、時折不安に襲われても不思議ではない。自分がこれから登ろうとしている山は、果たして自分が登れるほどの高さなのだろうか。刻苦の努力の末にその山の頂にたどり着いたとして、そこから見える景色は、自分が思い描いていたのと同じく美しいものだろうか。もし幻滅が待っているのだとしたら...。

かつて私も不安であった。だからこのエッセイを繰り返し読んだ。藤原氏は、大学院生の陥りがちな不安として、次の3つを挙げている(p.25)。
  • 自分の能力に対する不安
  • 自分のしていることの価値に関する不安
  • 自分の将来に対する不安
そして、これらを乗り越えるための研究者の資質として、次の4つを挙げている。
  • 知的好奇心が強いこと
  • 野心的であること
  • 執拗であること
  • 楽観的であること
しかし正常人であるかぎり、これらのすべてを兼ね備えていたとしても、上記三大不安との戦いは常に付きまとう。自分の知的営為は決して完璧ではありえないから、基準の取り方によっては、自分の能力、研究の価値、自分の将来、いずれにも否定的な評価を与えることは可能である。ほどほどのところで自分を満足させるというのは確かに挫折もしくは妥協であるが、藤原氏によれば、既成研究者の大半は「不安が頭をもたげる度にそれを、なだめつ、すかしつ、だましつ、研究に支障をきたさないよう処理している。妥協を通して、不安と共存しているのである」(p.28)。

若いハナはあまりに潔癖であり、不安をやり過ごす老獪さを持ち合わせていなかった。彼女は結局大学院をやめることになる。溢れる才能があったとしても、研究者として成功するのは簡単ではない。すんなり楽観派に移行して一本立ちできたように見えても、それは「研究がうまく起動に乗ったり、好論文が一つ書けたり、あるいは指導者に励まされたり」(p.29)といった小さなきっかけによるものかもしれない。それは自分の力の外にある僥倖のはずである。まともな教育を受ける機会に乏しい田舎で育った私にはそれがよくわかる。他人への対抗意識だけで生きているような人も世には多いけれど、私は、さりげなくそういう僥倖を与える側になれたらと思う。



数学者の言葉では (新潮文庫)
  • 藤原 正彦 (著)
  • 文庫: 255ページ
  • 出版社: 新潮社 (1984/01)
  • ISBN-10: 4101248028
  • ISBN-13: 978-4101248028
  • 発売日: 1984/01

「理系のための人生設計ガイド」


医学系の研究者を対象に、人生設計のノウハウを書いた本。著者坪田氏は、慶應大学医学部教授であり、眼科の著名な研究者である。ノーベル賞確実といわれる山中伸弥京大教授の笑顔と推薦文が載った帯と共に平積みされているとインパクト満点である。実は私もそれに釣られたクチである。内容はひたすら前向きで、ネットワーク構築術、ポスト獲得術、研究業績向上術、企業売り込み術、時間管理術、危機管理術、などのテーマごとに、著者のTipsが伝授されている。

あまり中身を吟味せず本書を買ったのは、かつて読んだ坪田氏のブルーバックス・『眼の健康の科学―テクノストレスの予防から角膜移植まで』に好感を持っていたからだ。一般ウケより研究的興味を優先したなかなか硬派な本だった。研究の世界で第一線にいる緊張感がありありと感じられ、とても頼もしく思ったものだ。

しかし本書に限って言えば、得るものは多くはなかった。というのは、研究者にとっての最大の不安要因とは、自分の研究的才能そのものにあるはずなのに、本書にはその点がまったく書かれていないからだ。「母校の教授になるために」とかは、そういう本質的不安と、それに付随する生活の不安がクリアされた後の話であり、多くの非テニュアな理系研究者には、本書は勝ち組のお気楽トークに聞こえてしまうだろう。

おそらくこの点は、研究をやめても開業医として余裕でリッチに暮らせる医学部と、研究を止めたら直ちに路頭に迷う他分野との違いなのかもしれない。
  • 自分に研究者としての才能がなくても、社会的に尊敬されつつ豊かな暮らしが送れる
  • 自分に研究者としての才能がなければ、社会の底辺に転落するかもしれない
この違いは大きい。言うなれば、医学研究者では、研究とは道楽なのであって、それをやめたとしても生活する道は開かれている。しかしそれ以外の研究者では、研究とは生活でもある。そこに悲劇があるのだ。

ということで、私の観点から言えば、真に人生設計が必要な若き研究者へ送る言葉としてより有用なのは、研究者の内的不安に正面からスポットを当てたものである。次項でそういう本について見てみよう。


  • 坪田 一男 (著)
  • 新書: 251ページ
  • 出版社: 講談社 (2008/4/22)
  • ISBN-10: 4062575965
  • ISBN-13: 978-4062575966
  • 発売日: 2008/4/22

「インディでいこう!」

勝間和代氏の事実上のデビュー作。この頃はまだ、「ムギ」という、パソコン通信時代から使っていたハンドルネームでの執筆であった。『お金は銀行に預けるな』が会計士・コンサルタントとしての硬派な実力を示す代表作だとしたら、ややおちゃらけ気味の本書は、自己啓発のための頼れるお姉さんとしての軟派系代表作と言えるだろう。最近の勝間氏本人は本書を「顔から火が出るくらい恥ずかしい」などと謙遜しているようだが、私見では、その後彼女をカリスマへと押し上げる原動力になったあらゆる技巧が無防備にさらされているので、その意味でむしろ鑑賞の価値はある。

内容は、副題にある通り、オトコに頼らずがんばって生きて行こう、自分で自分をプロデュースしましょう、という、まあ、お気楽OLならば心に引っかかるかもしれないもので、私としてはコメントのしようがない。インディというのはインディペンデントから取った造語で、経済的自立、自慢できる夫または恋人の存在、いい女として年を取る、などの条件を満たす女性だそうな。一方、ウェンディというのが、女をウリにして男に依存して生きてゆく旧型女性の象徴である由。

私の想像が正しければ、勝間氏の脳内構造は理系男子と本質的に同一であるように思うのだが、本書には、おそらくは「ムギ畑」という、働く母親たちのためのサイトを運営する過程で培ったであろう「女子操縦術」(?)のような技巧が存分にちりばめられていて飽きさせない。婚期を逃しつつある理系男子への恋愛指南書として推薦したいくらいである。

たとえば、経済的自立の目安として、唐突に「年収600万円以上を稼げる女であること 」というのが出てくるのだが、このあたりの豪快な論理展開に実に感心した。想定する読者から共感を得られそうな題材について歯切れよく言葉を並べて、自分の土俵にある程度引き込んだ後に、「年収600万以上」のように豪快に断定をかます。これで大方の女子は、「なんかよくわかんないけど納得!」と思ってくれるようだ。しかもお気楽系女子ばかりでなく、理論派高学歴女子の鑑賞にも堪える程度に、論旨を練ってデータを用意しているところがすごい。さすがコンサルタントとして揉まれただけのことはある。

ちなみに勝間氏は、最近、35歳独身限界説というのを提唱して物議をかもしているが、「35歳」という数字に真剣に反応してしまっているイタい人が結構いるのには驚く。「35歳」とか「600万」とかはただの記号、もしくはシャレであって、それ自体を突っ込んでも仕方ない。言ってみれば、論理と非論理の境目には、ある種の「言ったもん勝ち」の世界があって、そこでしれっと涼しい顔で、何か断定的なことを言ってみせるのがコンサルティングビジネスの、まあ本質である。そして、「自己啓発」みたいなロジカルにも精神論にも転びうるテーマをそれに絡めて、広大なマーケットを開拓した点が勝間氏の不朽の業績である。私のような割と奥床しい人間にはできない芸当で、お見事というしかない。勝間氏のある意味での首尾一貫性を知る上での必須の本である。


インディでいこう!
  • ムギ(勝間 和代) (著)
  • 単行本: 207ページ
  • 出版社: ディスカヴァー・トゥエンティワン (2006/1/18)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4887594429
  • ISBN-13: 978-4887594425
  • 発売日: 2006/1/18

同内容の本が別タイトルで最近出版されている。


勝間和代のインディペンデントな生き方 実践ガイド (ディスカヴァー携書 022)

  • 勝間 和代 (著)
  • 新書: 216ページ
  • 出版社: ディスカヴァー・トゥエンティワン (2008/3/1)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 488759626X
  • ISBN-13: 978-4887596269
  • 発売日: 2008/3/1

2010年1月4日月曜日

「お金は銀行に預けるな 金融リテラシーの基本と実践」


勝間和代氏の出世作。ずいぶん前の本かと思っていたが、わずか2年前の本である。主たる内容は、庶民がまとまったお金を動かす際にやりがちな過ちを指摘し、合理的な行動を指南するもの。たとえば、庶民に馴染み深い銀行預金や住宅ローンがいかに非合理的な選択かを指摘しつつ、その代案として、国債から始まり商品ファンドに至るまで、いろいろな金融商品を非常にわかりやすく解説している。金儲けの幻想を煽るような本ではなく、随所に「リスクなしに儲ける方法などない」("There is no such thing as a free lunch", p.66)という原則を強調するという正しい態度を貫いている。

本書は、自己啓発の教祖になってしまった最近の勝間氏の真の実力を思い出させてくれるという点で貴重である。最近の粗製濫造作品とは別物と考えた方がよい。経済学的な記述は正確であり、題名も見出しのつけ方も秀逸である。投資入門、のようなカテゴリーの本では、おそらく最も優れた本と言える。

他の先進国に比べて日本人は、全資産におけるリスク資産の割合が低いことが知られている。しかし、リスクをどのくらい好むかについての国民性調査をやってみると、日米にほとんど差はないという結果がある(p.26)。だとすれば、日本人がリスク資産に手を出さないのはなぜか。著者はそれを金融知識の不足に求める。ではなぜ金融知識が足りないのか。著者はその主たる原因を、金融教育の不足と日本人の長時間労働に求める。このあたりの指摘は定量的データを使った小気味よいものだ。何より、投資入門、というスタンスの本なのに、あえて社会的・構造的問題についての指摘から入るというスタイルに、著者の正義感のようなものが垣間見えて心地よい。

2章以降、資産についての庶民の常識のようなものを著者は次々に論破してゆく。それをいくつか見ていこう。

  • 当面使わないお金は、銀行の定期預金でなく国債に投資せよ
    年利を見れば自明なことである。ただし国債は、途中解約すると元本割れの危険がある。
  • 現金資産があるのなら家やマンションは買うな
    13ページにわたって力説されている。住宅ローン金利の不合理な高さ、不動産売却の難しさ、など問題が多い。「これらが、最近、都心に賃貸で住みながら金融資産を多く持っているという層が増えてきている背景です。つまり、最も合理的な行動をとるとこのような形になるのです。」(p.105)
  • 生命保険は一般に無駄が多いので、必要最低限とせよ
    掛け金がかなり高い割に、リスクの計量が難しい。たとえば子供の生活費を残すという観点で加入するとしても、たとえば逓減型の保険を選択せよ、と主張。
  • 直に株式投資をして儲けるのは玄人にも困難。投資信託を利用せよ
    特にインデックス投信が手軽で効率がよい。
最後の株式投資については、本書では、ファンダメンタルズ分析(財務・経済分析)に比べてチャート分析(株価の変動パターンで投資のタイミングを決めるやり方)が、投資パフォーマンスににおいて優れているという事実は知られていない、というスタンスで書かかれている(p.49、157)。特に、日経マネーの8400名余りの個人投資家のアンケート調査では、ファンダメンタルズをチャート分析よりも重視する、と答えた投資家の方が有意に高い成績を挙げていた、との結果は説得力がある(p.157)。

最近の金融工学の研究によれば、チャート分析を工夫することでインデックスを上回る成績を挙げたとの論文もあるようなので、一概にチャート分析を否定はできないのだが、素人の相場観のようなものを頼りにした株式投資はやるだけ無駄、というのは庶民向けには重要なメッセージであろう。

なお、2007年の本書発売後すぐに、本書の通りのインデックス投信に投資した真面目な読者はかなりの損害をこうむったはずである。その後のリーマンショックで、たとえばTOPIXは半分近くに暴落したからである(下図)。しかし著者を恨んではいけない。繰り返し述べられている通り、「管理できるのはリスクのみ。リターンは管理できない」からだ(p.160)。


2005年1月から2010年1月までのTOPIXの推移(グラフ出典: Yahooファイナンス




お金は銀行に預けるな 金融リテラシーの基本と実践 (光文社新書)
  • 勝間 和代 (著)
  • 新書: 230ページ
  • 出版社: 光文社 (2007/11/16)
  • ISBN-10: 433403425X
  • ISBN-13: 978-4334034252
  • 発売日: 2007/11/16