2009年9月29日火曜日

「『地震予知』はウソだらけ」


ひとことで言えば、一昔前の新聞記者が得意としたような情緒的な政府批判の中に、科学的な記述が埋め込まれたような本である。朝日新聞を読んでもイライラしないタイプの人であれば痛快に読める可能性はあるが、ほとんどの日本人には疲れる本であろう。地震予知をめぐる科学的記述はきわめて正確なだけに、惜しい本だ。

著者島村氏は世界的に高名な地球物理学者であり、そのWebサイトにて確認できるように、複数のNature論文をはじめ(これは音楽業界で言えばグラミー賞ノミネートくらいにあたる)、地球物理の分野では最高級の業績を挙げた学者である。

地震を予知することの困難さを論証する著者の筆致は鋭く正確で、軽快に書かれた「まえがき」は読んで痛快、期待で胸がふくらむ。

しかし第I章に入る直前、謎の小説風空想文章が7ページわたり続き、ほとんどの読者はここで困惑するに違いない。この情緒的でネガティブで、「いたいけな庶民」を偽装したようなトーンはいったい何か。

それを我慢して読み進めると、しばらくはやはり軽快で鋭い記述を楽しめる。地震予知が、株価の予測くらい困難なことはおそらく科学的に本当である。地震予知に対して過去何十年かなされてきた巨額の投資は残念ながら目的を達することはできなかった。しかし著者は必ずしもそれを責めない。1970年代までは多くの研究者が地震予知の未来を確信していたからである。冷静な筆致で書かれた第1章は読むに値する章である。

しかしそれ以降、情緒的な政府批判の弛緩した調子が徐々に鼻についてくる。著者によれば、大震災の際に市民の自由を一部制限する法律(大震法)は、その他の有事立法同様、戦争準備のための絶対悪である。まあそういう解釈をとる人もいるかもしれない。しかし、そのような政治的解釈に一方的に肩入れすることが、地震予知の現状についての科学的記述の信頼度を損ないかねないことを著者は知るべきだ。

2章以降、科学的で信頼度が高いと思われる記述と、昔の反体制インテリが好んだような陳腐なフレーズが混在して、両者をより分けるのに骨が折れる。たとえば、阪神大震災についての次の文章はどうだろう。
報道や自衛隊など、ひっきりなしに上空を舞う多数のヘリコプターの騒音が下敷きになった人々を探して救助する邪魔になった。老人や在日外国人など、都市生活者の弱者に被害が集中したのも、この震災の大きな問題であった。(第III章2、p.135)
「軍隊」憎し、ということなのだろうが、災害派遣された自衛隊と、特に誰も助けはしなかった報道のヘリを同列に置くというセンスは私にはないし、データなしに後段の文章を真に受けるほどナイーブでもない。

私が編集者なら、この手の時代物の反体制的ポーズをそのままにはしなかったろう。真に科学的な批判ができるなら、「お役人」とか「仲良しクラブ」とか「御用学者」といった情緒的な非難のレッテルを全部廃して、固有名詞ベースで真剣勝負をすべきだ。それもできないのに、国策逮捕だ何だと自己正当化してもむなしく響くだけである。近い将来、著者のすばらしい学問的業績にふさわしい、真に科学的な本として書き直されることを希望する。

★★☆☆☆ 「地震予知」はウソだらけ
  • 島村英紀
  • 講談社文庫
  • 2008

「外務省『失敗』の本質」


本書は要するに、外務省がらみのいくつかの有名事件(田中真紀子更迭事件、鈴木宗男事件、瀋陽領事館事件、など)の新聞報道をまとめて、軽いコメントを付したような本である。その意味で、大学生のレポート書きあたりには便利な本かもしれない。

当事者たちの手記から今では明らかになっているように、外交がらみの新聞報道の多くは権力側からのリークによるものである。ゆえ、新聞報道を要約するだけでは、「失敗の本質」は明らかにはなるはずもない。このようなことは当たり前だと思うのだが、悲しいことに著者は、「世間の目や感情を忘れた外交は破綻しやすいという教訓を、今度こそ、かみしめなければならない(p.48)」、のような、情緒的で素人風の感想文を書き連ねるばかりである。逆に言えば、権力側にとってこの著者のような記者ほど便利な存在はないわけで、実際、著者が政府関係の委員会に呼ばれたりしているのもうなずけるところだ。

外交のような、国際政治についての高度に専門的な知識を要する分野を、いわゆる「政局報道」の枠内に矮小化して何がうれしいのだろう、というのが悲しい読後感であった。本書は、後の時代に、まだ平和であった日本国で、マスコミがどのくらい弛緩した報道を垂れ流していたかの歴史的資料になることだろう。

と、皮肉っていても始まらないので、ひとつだけ指摘をしておこう。

p.100にマスコミ用語で言う「ムネオハウス」についての疑惑が書かれている。本書は、外務省の報告書そのままに、根室の業者が「日揮」に工事を丸投げした一件は、鈴木事務所の第1公設秘書が取り仕切ったと書いている。これは「国策捜査」の結果、裁判でも認定されてしまった経緯なのだが、事実はおそらく異なる。すべてに色濃く関与し、しかしなぜか一切の処分を免れた倉井高志支援室長(当時)をめぐる興味深い分析が、鈴木氏の『闇権力の執行人』(講談社+α文庫、p.161)にある。どちらが現実に肉薄しているのか、比較してみるのは一興である。

★☆☆☆☆ 外務省『失敗』の本質
  • 今里義和
  • 講談社現代新書
  • 2002

「大東亜会議の真実 アジアの解放と独立を目指して」



日本人が近現代史を総括できる時が来るとしたら、この本は、きわめて重要なテキストとなろう。理想主義としての大東亜共栄圏。東アジアの独立運動の志士たち。東条英機の能吏としての美点と、非ステーツマンとしての限界。時によりさまざまな角度で交差するこれらの軸に、著者自身の子供時代に体験したエピソードが絡められ、大東亜会議という華々しいエピソードが、事実の通りに華々しい出来事として活写されていく。本当に面白い。

記号として大東亜、と聞くと右翼的な印象で捉える人が多かろうが、字義通りに取れば大いなる東アジア、そこに共栄圏を打ち立てようという話であり、白人帝国主義がグローバルスタンダードであった当時には、むしろ美しい理想主義をそこに感ぜずにはいられない。

この種の本では、「戦争は絶対やってはいけない」のような、現実的な力を何も持たぬ思考停止を恥じるところなく出発点にする手合いが非常に多い。戦争が避けるべきものであることは誰でもわかっている。では、たとえば、金正日にミサイルで脅されて、たとえば九州割譲とか数兆円規模のODAとかを要求されたらわれわれはどうすべきだろう。独裁者に跪き、奴隷の平和を求めるべきなのだろうか。

現代よりもはるかに過酷な帝国主義の時代に、戦争反対、などというお題目は意味を持たなかった。大東亜共栄圏という理想主義の後ろに、大日本帝国の武力的威光があったのはむしろ当然である。

著者は後付けでわれわれが刷り込まれた一切から自由に、個々のエピソードを綴っている。あたかも書くこと自体が楽しみであるかのようであり、読んでいる側もぐいぐい引き込まれる。戦争時代を描いた歴史書としては出色の出来である。万人に勧めたい。

★★★★★ 大東亜会議の真実 アジアの解放と独立を目指して
  • 深田祐介
  • PHP新書
  • 2004

「沖縄住民虐殺―証言記録」


日本軍が組織的に沖縄の日本住民を虐殺したという前提で書かれた本。基本ストーリーは『鉄の暴風』に依拠しており、本書の証言もその筋にそって集められた節がある。一方、戦後の米軍の悪行についても詳細な記述があるが、こちらの方は時代が近い上、特に種本はなく、比較的信頼しうる素材になっていると思われる。

丹念に証言を連ねる著者の姿勢は評価しうるものである。しかし時代的制約がそれを消して余りある。とりわけ次の一節は、時代の雰囲気の証言として、ぜひ後世に伝えたいと思う。
曽野綾子著『ある神話の背景』は...きわめて熱っぽい労作であるが、元日本軍を免罪することに腐心した政治性において、注目に値するだろう。(p.112)

曽野氏の著書の具体的内容に一切踏み込むことなく、この種の言及がなされることに改めて強い感慨を覚える。『鉄の暴風』の記述の客観性に疑問が指摘されている現在ではなおさらである。まるで、日本軍にとって有利になってしまう調査報道の類は、すべて政治的プロパガンダに過ぎないと決め付けているように私には聞こえる。

政治性、という時代がかった言葉に、私は戦前のプロレタリア文学運動を想起した。プロレタリア文学の主要な評価基準に「文学の党派性」という概念がある。党派性というのは要するに、革命政党の方針と矛盾しない、ということである。具体的には、『蟹工船』のように、独占資本を悪く描き、プロレタリア独裁を賛美する、ということである。

それが文学であれば問題はない。実際、『蟹工船』の臨場感は文学として素晴らしい。しかしこの本には、旧日本軍関係者が実名で出てくる。この世に実在する生身の人間を、政治的ないし党派的立場から面罵しているのである。これは許されることなのだろうか。

本書が単行本として出版されたのは1976年。連合赤軍事件が党派性概念の極限形態を世に知らしめてから5年しか経っていない。「逆コース」への不安が、なんとなく世間に満ちていたのはわかる。しかし、である。いやしくも「証言記録」と副題に書くのならば、あたかも特定の政治性を守ると言わんばかりのことを書くような真似はしてはならないと思う。

このような才能ある著者が、政治の時代の犠牲者として、この種の非生産的な活動に従事せざるを得なかったという事実に、敗戦がこの国にもたらした深い傷跡を見ざるを得ない。

沖縄住民虐殺―証言記録 (徳間文庫)
  • 佐木 隆三 (著)
  • 徳間文庫、1982
  • 文庫: 253ページ
  • 出版社: 徳間書店 (1982/04)
  • ISBN-10: 4195972981
  • ISBN-13: 978-4195972984
  • 発売日: 1982/04

「連合赤軍『あさま山荘』事件―実戦『危機管理』」



浅間山荘を包囲した警察幹部の回想記、ということになっているのだが、実際に起きた事件に題材をとった単なるアクション小説と思ったほうがいい。本人が当時どういう役割を演じた(と思っている)かについての情報はきわめて豊富だが、実際に何が起きていたのかはさっぱりわからない。これほどのページ数を費やしながら、ここまで超主観的な状況描写を続ける神経は並ではない。

本書が最初に出版されたのは1996年であるが、その頃には敵方の坂口弘や永田洋子の手記も出版されていた。しかし不思議なことに、著者はこれらの本を読んだ形跡が全くない。ひたすら主観的思いを書き連ねるだけである。にも関わらず、時に記述は非常に細かい。たとえばこんな調子だ。

「内ポケットには香港以来使い込んだパーカーの万年筆と七二年版能率手帳。左手首ではロレックス・オイスターパーペチュアルのブラックフェイスが時を刻んでいる。こいつは香港領事時代、一か月分の俸給にあたる大枚、米貨850ドルをはたいて、分割払いで買ったものだ。」(p.44)

これが、3名の死者を出したこの大事件を記述する本の、第1章に出てくるのである。私はこれを「不真面目」と感じた。残念ながらこの「不真面目な饒舌」は最後まで改まることはない。山荘に持ち込まれたと想定された鉄パイプ爆弾に関する記述はこんな感じだ。

「若草山で鉄パイプ爆弾1発を押収しましたが、かなり強力な爆弾でして、直径4.9センチ、長さ5.8センチ、重量324グラム。両端をゴム年度で詰め、導火線は4.5センチ、中のダイナマイトは72グラム、上下に八号散弾54グラム。」(p.128)

これが丸山参事官の会話中の言葉として出てくるのだが、もちろんこんな詳細の数値を記憶しているわけはないので、手元の警察資料を見ながら適当に会話を仕立てているがバレバレである。本書に出てくる会話文のすべてはこんな調子であり、そのような体裁でもって「民族主義」などと悪し様に言われた長野県警関係者の不愉快さは察するに余りある。

実際、これを読んだ県警関係者は激怒し、本書が映画化される際には関係者の協力は一切得られなかったと聞く(週刊誌に何度か記事が載ったので記憶している方も多かろう)。さらに、敵方の坂口弘からも、無関係の爆弾事件と関係付けられたかどで訴えられ、著者の敗訴が確定している。警備担当幹部にして、新左翼運動に関する知識の不正確さで訴えられるとは、失態としか言いようがない。

最後に、これは言ってはいけないことなのかもしれないが、千名以上の警察官を動員しながら、部下を2名も死なせた指揮官が、これほど誇らしげに事件を語るのは、著者のある種の人格を表しているように思えるのは私だけだろうか。

★☆☆☆☆ 連合赤軍『あさま山荘』事件―実戦『危機管理』
  • 佐々淳行
  • 文春文庫
  • 1999

「『あさま山荘』篭城―無期懲役囚・吉野雅邦ノート」


本書は連合赤軍の同士殺しの惨劇を生き延び、その後あさま山荘事件で逮捕された吉野雅邦の人間ドキュメントである。著者は吉野の小学校からの親友であり、大学卒業後も雑誌記者として事件に関与した。幼馴染という立場上、吉野家についての情報は豊富である(初公開の写真も数点ある)。未公刊の吉野の手記や手紙のほか、雑誌記者としての立場での見聞、それに一審判決(石丸判決)の要約や抜粋も収録されている。これらの材料に対する著者の態度は誠実で、資料的価値は高い。連合赤軍事件に興味ある読者なら買って損はない。

ところで、連合赤軍事件で最後まで自供を拒んでいた坂口弘が「落ちた」のは、2つの死体の写真を見せられた時であった。ひとつの死体は連合赤軍兵士・金子みちよであり、もうひとつの死体は今に至るまでその名は明らかになっていない。妊娠8ヶ月の胎児だったからである。

その胎児の父が、本書の主人公・吉野雅邦である。金子は吉野の妻であった。そして著者はこの二人と学生時代に親しく付き合った。本書には金子の写真も(不鮮明だが)2点収録されている。

著者は、この悲惨すぎる事件の非日常と、著者が知るこの若いカップルの日常のコントラストを通して、いわば時代の狂気を描こうとしたように見える。一方でもう一人の共通の親友・津田の渡米という事件をそれに絡ませて、吉野の人生という軸に2人の人生軌跡が螺旋状に絡まるという形で、いわば文学的にこの物語を構成したかったように思える。

しかし残念ながらこの試みは成功したとは言えない。前半の吉野と金子の純愛物語は、おそらく両者を親しく知る著者の照れが影響してなのか、どうも中途半端である(些細な点だが、見出しのつけ方が耐えがたく悪いのと、三角括弧を使った引用の仕方が見にくい)。津田の存在に至ってはおそらく確実に不必要である。

しかしその失敗を補って余りある貴重な情報が本書にはある。私が特に注目したのは、1983年1月28日付けの著者宛の吉野の手紙である(p.229)。この手紙で吉野は、女性同志殺害を命じた永田洋子の心境を、理論的能力で抜きん出ていた最高幹部・森恒夫をめぐる女性ライバル抹殺の物語として解釈している。

永田は、有能な女性兵士をほぼ全員粛清した後、事実婚の状態であった坂口に離婚を告げ、そしてその場で最高幹部森恒夫との結婚を宣言したのだった。その結婚宣言が、能力的にライバルと目されていた金子みちよ・大槻節子の処刑の後であったことに吉野は注目する。

「彼女は何か本当に金子・大槻さんあたりが永田を排除して森に接近し、『指導者の妻』の座を占めるかもしれないという不安を抱いていたのではないかと今思い返すとそう思われます。」(p.230)

「それゆえ、大槻さん・金子の死によって安心して、森を連れて上京し、結婚にこぎつけたのはではないかと思います。」(同)

大槻節子、金子みちよとも、理論的能力に優れ、リーダー性もあり、その上、美人であったとされている。上のように言ってしまうと、山岳ベースでの出来事はすべて単なる痴話事件も同様となってしまうので、坂口弘はじめほとんどの当事者はこれを決して認めることはないだろうが、これが、連合赤軍中央委員であった吉野雅邦の、事件から10年後の述懐である。

★★★★☆ 『あさま山荘』篭城 ─ 無期懲役囚・吉野雅邦ノート
  • 大泉 康雄
  • 祥伝社文庫
  • 2002

「死へのイデオロギー―日本赤軍派―」


米国人の女性社会学者による赤軍派・連合赤軍・日本赤軍の考察。巻末に一般人が入手不可能な大量の文献が列挙されていることからもわかる通り、著者は研究者的几帳面さで連赤事件の事実を集めたのだろう。とはいえ、日本赤軍や連合赤軍に知識があまりない人が読むにはあまりに内容が細かくて最後まで読み通せないだろうし、一方、『菊と刀』のような比較文化論に興味がある読者にも期待外れだろう。当事者たちの本を読んだことがある人には、事実の突っ込みは浅いと感じられそうだ。読み方は難しい。

第一部「岡本公三」では、テルアビブ空港乱射事件で生け捕りにされた岡本がまだ元気な頃のインタビューが聞ける。その事件に対する、日本政府、岡本の父、それに日本の宗教団体に共通する日本的な行動様式が指摘され、それなりに面白い。

第二部「赤軍派」、第三部「連合赤軍」では、時折日米の文化の相違や社会学的な分析を交えつつも、基本的にはひたすら淡々と、どこまでが何に依拠した事実で、どこからが著者の想像なのか区別がつきにくいひとり語りが続く。分析といっても、中根千枝や土居健郎を引用してみたり、山岳ベースでの総括における心理状態を、心理学で言う「意識高揚法(conscious raising)」と結びつけたりといった素朴なものだ(意識高揚法というのは、自己啓発セミナーの洗脳テクニックとして有名なあれである)。

本書の価値は、時代の雰囲気や、社会を覆う暗黙の了解事項から自由に、淡々とこの事件をレビューしたというところにあるのだと思う。あるところでは突き放し、あるところでは素朴に感心する、といったような、「闘争」を主観的に担った当事者では決して言えない観察がところどころにある。

第四部では著者は連合赤軍の殲滅戦にアイロニーを見る。

連合赤軍の粛清と、逮捕後のメンバーの行動の関係は、まさにアイロニーといえる。...。そのレトリックとめざした目標にもかかわらず、連合赤軍の『総括』の実体は、自供というものに抵抗するためというよりも、むしろ自供を促すために人びとを訓練してしまったようなものだった。総括の要求に抵抗しても無駄だったし、いったん暴力がその過程に導入されるようになると、ことばでの抵抗は必ず体罰で終わった。(p.261-262)

これは鋭い指摘である。このコントラストを感じる感性と、エピローグにおけるセンチメンタルな旅の描写を見て、パトリシア・スタインホフという女性に、学者というよりも人間としての誠実さの魅力を感じることができる。この本には社会学者としての深みはまるでない。研究者としては著者は二流であろう。「死へのイデオロギー」の考察ついて、坂口弘(「共産主義化」論)を越えるものは何もない。にもかかわらず、悪くはない読後感を与える不思議な本である。

★★★☆☆ 死へのイデオロギー―日本赤軍派―
  • パトリシア・スタインホフ
  • 岩波学術文庫
  • 2003

2009年9月28日月曜日

「兵士たちの連合赤軍(新装版)」


連合赤軍の兵士で、同志殺しの修羅場を生き延びた「バロン」こと植垣康博の回想記。幼少期から弘前大学入学、民青加盟、全共闘参加、赤軍派への加盟、M作戦、そして山岳ベース事件、と話は進み、最後、軽井沢駅で逮捕されるところまでが描かれる。最近はほとんど見かけない上下2段組の小さな文字で約400ページという分量だが、エネルギーいっぱいの著者の活躍が軽快に描かれ、退屈しない。

ただ、実際にあった出来事をかなり忠実に書いているので、新左翼運動とか赤軍系の人脈についてある程度の知識がないと筋が追えなくなるかもしれない。たとえばさらりと梅内恒夫の話題がp.76以降に出てくるが、梅内が誰なのか知らないと意味不明かもしれない。有名人はフルネーム、一般に知られてない人物についてはおそらく仮名(もしくは組織名)で苗字だけ、という区別があるようだ。同様に、進藤隆三郎(p.119、161)や遠山美枝子(p.123)といった、後に山岳ベースで同志により殺される重要人物たちの登場もさらりとしたもので、読み手に高い知識がないと文脈がわかりにくいかもしれない。

血を吐くような調子の坂口弘の『あさま山荘1972』と対照的に、本書からはあまり自責の念は伝わってこない。しかし著者の人柄と言うべきか、そのことは読後感を別に悪くさせない。著者は一生懸命生きたのだ。その都度その都度与えられた状況の中で、自分の善なる理想を持ち続け、逃げず日和らずベストを尽くした。だから12人の同志には強い同情はしつつも、それを一種の天災のように受け取っているのだと思う。M作戦においては誰よりも果敢に戦い、逮捕直前には、あれほど身体がぼろぼろだったのに、厳冬の妙義山で、坂口の言葉によれば「不屈のラッセル」を続け、仲間の山越えを助けた。それは彼なりの誠実さであり、むしろそれは安易に否定されるべきものではない。

その誠実さとか一生懸命さと、山岳ベース事件における同志殺しのメカニズムは別の次元の問題だ。それは決して難しい話ではないと思う。同志殺しは彼らの思想の突き詰めたところにある論理的必然であろう。それはこういうことだ。

赤軍派も革命左派も暴力を肯定する革命組織である。彼らには殺人は絶対悪ではない。実際、赤軍派では山岳ベースに入るはるか前に、進藤の情婦・林妙子の処刑が党決定されているし(p.219)、革命左派では「総括」が始まる前に、2名が殺害されている(印旛沼事件)。さらに、彼らの革命理論は、能動的行動が世界を変える、という前提に立っている(「共産主義者の能動的実践」、p.105)。実際にはこれは、「存在が意識を規定する」史的唯物論とあべこべなのだが、彼らはそうは考えない。そして共産主義革命の歴史的必然を意識するあまり、歴史というマクロな流れと、個々人の行動という、粒度がまったく異なる2つの事象を混同するという論理的誤りを犯している。

これは、風の流れが一方向であっても、風の中にある酸素や窒素の分子はミクロに見れば乱雑な熱運動をしていることにたとえられるかもしれない。仮に歴史に必然的方向があったとしても、全員が一律にそちらの方向に動かねばならない必然性はない。人間の能力・適性は多様であるから、全員が一様に鉄の兵士にはなり得ない。実際、山岳ベースに集った人たちの中で、軍人としての素質がある人は半数にも満たなかったはずだ。しかし人間の多様さを否定する彼らの論理からすれば、資質の欠如自体が反革命の証であり、それは十分に処刑の理由になったのである。

まだ青春時代にいた若き植垣は、連合赤軍メンバーであった大槻節子に恋をしていた。大槻は過酷な総括を要求され、結局彼らは結ばれることなく、永遠の別れを遂げた。軽快な文体がその悲惨さをむしろ際立たせ、後半の第7章は本当に読むに堪えない。どこか自己弁護の香りが抜けない永田洋子の著作とは対極の意味での悲しさを強く感じる。植垣の一生懸命さが図らずも形作る真のドラマ。心を揺り動かすものがある。

★★★★★ 兵士たちの連合赤軍(新装版)
  • 植垣康博
  • 彩流社
  • 1984(新装版2001)

2009年9月27日日曜日

「巨大隕石の衝突―地球大異変の歴史を読み解く」


私が子供の頃、恐竜が絶滅した理由はまだよくわかっていなかった。諸説入り乱れていたのだが、どうもSFチックで、ありそうにないなと思ったものは、地球外にその絶滅の理由を求めるものであった。いわく宇宙人、いわく巨大隕石が地球に降ってきて、恐竜が絶滅した。

その後、恐竜に子供の頃のような興味を失って、そのままになっていたのだが、つい10年ほど前、真実が科学的にほぼ立証されていたことを知った。

白亜紀の地層の上に、化石を全く含まない薄い地層(KT境界層)がある。世界各地において、KT境界層の中にイリジウムという元素が地球上で想定される濃度の数10倍から100倍という異常な高濃度で含まれることが報告された。

これは、このKT境界層が、地球上ではありえない理由により作られたことを示唆する。そこであるアメリカの研究者(アルバレス親子)は、KT境界層が隕石衝突によって作られたと仮定して、隕石の大きさ、気象に与える影響などを試算した。1980年のことである。

当初彼らの説はおおむね冷淡に受け取られたようであるが、アルバレス論文がScience誌に出てからほぼ10年後、メキシコのユカタン半島に、その巨大隕石のクレーターが発見される。磁気異常・重力異常、その他あらゆる地球物理学的・地層学的知見に照らして、文句のつけようがなかった。

驚くべきことに、隕石衝突説は本当だったのだ。

子供の頃の想像の世界に、科学色の道しるべを付け直してくれる好著。
(本稿初出 2007/01/21、一部改訂。)

★★★★★ 巨大隕石の衝突―地球大異変の歴史を読み解く
  • 松井孝典
  • PHP新書
  • 1997

「古事記 (上) 全訳注」


10年以上前に買った本だが、今日たまたま本棚から発見。パラパラと眺めてみると当時の感想がよみがえってきた。

わが国の歴史研究者の、実に切ない知的水準がわかる駄本。

著者によれば、因幡の白兎と似たような筋の説話がインドネシアや東インド方面にもある。それをもって「兎とワニの話が、インドネシア方面から伝わってきた動物説話であることは、明らかである」(p.113)。

おい。古事記ができた6世紀以前に、どうやってインドネシアと行き来できてたんだよ。てか、よくわからないけど、仮に民衆レベルの行き来がその時代にあったとして、逆にインドネシアの説話がむしろ日本産であるっていう可能性はないのかよ。

なんだかそういう、「とりあえず言ってみた」という感じのふざけた解説が切ない。更に、神代の国造りの物語の生々しい人間的色彩を、よくここまで無味乾燥に訳せたなと思わせる現代語訳が切ない。

と、ここまで書いたところで、Amazonその他の書評を見てみると、切なさ倍増。「日本人なら基本だよね」みたいな、お前ぜったい読んでねえなというのがバレバレな皮相な文章ばかり。歴史研究者にヤヴァイ人が多いのは知っていたが、読者がこれではどうにもならん。

すまんがごみ箱送りにした。
(本稿初出 2007/07/15。)


★☆☆☆☆ 古事記 (上) 全訳注
  • 次田真幸
  • 講談社学術文庫
  • 1977

「『知』の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用」

1994年、当時もっとも権威あるとされていた哲学系の論文誌「ソーシャル・テクスト」誌に、
境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて(Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity)
と題する一篇の論文が掲載された。この論文は、難解な理論物理学の用語と、ポストモダン哲学の大御所たちの言説を随所にちりばめた文章からなり、その一見斬新な解釈を、ポストモダン哲学に通暁した査読者(reviewer)たちも編集者(editor)も認め、掲載に至ったのである。投稿したのはアラン・ソーカルという物理学を専門とする大学教授であった。

掲載から程なくして、著者ソーカルは、これが実は偽論文であったことを公表する。物理学の概念の無内容な羅列を、一見哲学的な解釈で包んだだけだというのである。そのような論文がどういう評価を得るかを見ることで、いわば哲学論壇のベンチマークをやってやろうという趣旨である。史上最も痛快なイタズラと言えよう。 これが世に言う「ソーカル事件」である。

本書はその仕掛け人、ソーカルらによる哲学批判の書である。原題は "Fashionable Nonsense"、という皮肉たっぷりのものである。「ポストモダン思想における科学の濫用」という副題の通り、本書は、ラカンやクリステヴァといったポストモダンの大御所たちの言説が、いかに空疎なレトリックに基づいているかを軽快に語る。要するに、ほぼ無内容な内容を、難解な自然科学用語で飾り立てているだけだというのだ。

本書に詳述されているように、残念ながら彼らの批判は、哲学界の住人の多数派には受け入れられるところにはならなかった。ポストモダンの文筆業者からすれば、物理学と哲学の間には埋めがたい方法論上のギャップがあり、物理学側の論理からの批判は意味をなさないというのだ。それは論理というよりは、哲学者ではない者からの哲学への批判は許さない、という感情的反発に過ぎないように見える。

このような不毛な対立は、いかにも無内容なポストモダン哲学のみならず、現代社会のいたるところに顔を出す。典型的なものは、人間味を失った「科学的」な学問に代えて、人間的に視点を入れた・要素還元主義的でない・etc.な議論をすべきだ、というような主張である。たとえば「サービスサイエンス」なる研究分野をめぐる対立がそのひとつである。この新しい研究分野には、数学や統計学を毛嫌いする一派がおり、彼らによれば、サービスサイエンスなるものが、本質的に新しい学問分野であって、従来の自然科学的な定量研究の枠には収まらないというのだ。

対象が自然というよりは人間系である以上、自然科学との違いが出るのはある意味当然である。しかし実際にはあるパラダイムに依拠しながら、自分たちは仮説を立てずにありのままの情報を受け入れるのだ、などと主張するに至っては、見ていて痛々しささえ感じる。実際には、サービス科学と自然科学の方法論的な違いの多くは、学問的成熟段階の違いに過ぎないように見える。

すなわち、サービス科学はいまだプレ・パラダイム領域にいるのに対し、自然科学はいわばポスト・パラダイム領域にある。このことから、前者では仮説構築や解釈が重要になるだろうし、後者では、統計学的な手続きに従った定量的検討が中心になるだろう。このような時間軸に気づかずに、両者を並列に並べてことさら違いを強調することには、ほとんど何の意味もないように思う。要素還元的ではなくてシステム論的観点、とか、不確定的な要素を含む人間系を定式化する、などの視点は、実はたとえば物理学の中ですら議論し尽くされてきたことだ。これらの研究が、いわゆる文科系の学問手法に従属的な形で進展することはまずないに違いない。


★★★★★ 『知』の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用
  • アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン (著),
  • 田崎晴明、大野克嗣, 堀茂樹 (訳)
  • 岩波書店
  • 2000

「反社会学講座」


知的マンガとして一興。気晴らしに推薦。

全国紙と呼ばれる新聞は、やたら情緒的な煽りと憶測ばかりで、信頼できるデータといえば天気図くらい、総合的に見て、エロ本と知的水準において大同小異。私にはそうとしか思えないのだが、そう思えない程度に、ある意味素直な輩は世間には無数にいる。そういうことを軽快に揶揄した本。

ただ、内容があまりにネタ的で、残念ながら考察も甘い。たとえば、昔の日本人はいい加減だったというのはいいとして、文脈からすれば、他の国と比べて相対的にどうかが問題だろう。修行を積んだ上で続編を望む。
(本稿初出 2004/11/02)

★★★★☆ 反社会学講座
  • パオロ マッツァリーノ
  • ちくま文庫
  • 2007

「重力と力学的世界―古典としての古典力学」


名著。今は科学的精神の権化であるように思われている重力理論が、実は昔は錬金術同様に胡散臭い存在に思われていたというのが話の中心。解析力学のあまりの抽象ぶりを怪訝に思った物理学生なら、楽しんで読めると思う。現在の視点で過去の理論を決め付ける愚に触れつつも、トマス・クーンの寂しい相対主義(「パラダイム論」※)を遥かに越えた高みに読者をいざなう。
※トマス・クーン、「科学革命の構造」参照。

予備校講師として、著者とは一時期同僚だったことがある。一度授業を見学させてもらった時、火を吐くような「知性の叛乱」の調子とはまるで対照的に、学生相手にやたらと腰低く懇切きわまる調子で説明をしていた姿が印象深い。

最近、磁力理論の変遷も加えて更に完成度を高めた版が大いに売れているようだが、明らかに的を外した書評も多い。この種の本を読み切るだけの知的強靭さを持った人間は今の文壇にはほとんどいないのかもしれない。著者のいる高みと、マスメディアの知性との間の距離は、ほとんど絶望的に大きい。
(本稿初出 2004/11/01)


★★★★★ 重力と力学的世界―古典としての古典力学
  • 山本義隆
  • 現代数学社
  • 1981

「博士の愛した数式」


傑作がベストセラーになりえるという例を、私は初めて知った。文学作品としての完成度もさることながら、日本の自称インテリのほとんどが信じているように見える愚かな迷信――「理系」と「文系」の対立――から自由に、このような文学的世界を描き切った作者に敬意を表したい。

この本に描かれた数学的美の世界は、多くの人にとっては狂人の妄想に思えるかもしれない。しかしそれは違う。もしも既知の記号同士の出会いにより新たな世界の創造を演出することが詩の役割だとするならば、作品中に出てくるオイラーの公式は、確かに、最高級の詩である。虚数と無理数と整数。決して交わることのないように見えるそれらが、それ自体実は畏怖の対象であるべき零という数を通じて結ばれる。母屋から隔絶した離れの中の出来事に似て、あるいは、80分しか続かない博士の記憶の世界に似て、その一片の公式は一個の小さな閉じた世界を構成するに過ぎない。しかしその一方で、その短い式は、二重三重の暗喩を通じて、無限の世界を表現する。博士と未亡人の愛も。主人公の孤独も。

文学者たちは学ぶがいい。人間の凝縮した思考を媒介にして、数の世界の混沌から、美しい秩序が浮かび上がってゆくさまを。あらゆる文学作品が目指す美のおそらくすべての形態が、そこで静かに達成されているというその事実を。そうして、言語という媒体の限界と、人間の思惟の可能性を知った時、彼らは初めて真の人間の姿を描くことができるだろう。
(本稿初出 2004/06/27)

★★★★★ 博士の愛した数式
  • 小川洋子
  • 新潮文庫
  • 2005

「TOEFL・TOEICと日本人の英語力―資格主義から実力主義へ」


素人床屋談義の対象になりやすい日本人と英語というテーマについて、真正面から取り組んだ本。指摘のほとんどは定量的データに基づいており、著者の深い学識と知性を感じさせる。よくマスメディアで報じられるTOEIC平均点の国際評価が、統計的にはほとんど意味を持たないことや、文法の比重を落とし英会話中心の教育を行った結果、学生のリスニング能力が実際には低下してしまったという事実などを、きわめて説得力のあるデータと論証で述べてゆく。

これらの内容は私には当たり前すぎるので、詳しくはまあ読んでもらうとして、なによりこの著者の生き方が私には興味深い。

NHKの英語番組でも有名なこの人は、ほぼ日本初のバイリンギャル・アイドルとして知られている。1970年前後にブレイクしたが(アポロ月着陸の時の同時通訳をやったとの噂)、チヤホヤに有頂天になることなく研鑽を積み、今はまともな大学教授となっている。昔はさぞかしと思わせる美貌の持ち主だ。

「クロスロードカフェ」を見ていた人は気づいただろう。鳥飼教授があえて、なまりの強い英語をしゃべる人たちを登場させていたことを。 World Englishes ―――鳥飼教授の英語観はこの言葉に集約されている。世界語としての英語。世界語であるがゆえに、意志を十分正確に伝えられる限りにおいて、地域ごとの違いは許容されなければならない。

私は思う。中学生の時以来、彼女にとって英語は、自分の優越感の源だっただろう。アメリカに留学した頃は、「アメリカ人のようにしゃべる」ことが目標だったに違いない。自分の優越感を固定するには、アメリカ英語を頂点としたピラミッドを受容し、その中上位に自分を置きさえすればよかった。しかし彼女は結局そうはしなかったのだ。

World Englishes 。その思想を受け入れることは、彼女に今まで優越感を与えてくれた上下の秩序を、自ら捨て去ることを意味する。自己否定の荒野の中で、そのような美しい理想に到達しえた彼女を、私は人間として尊敬したい。私に言わせればこの本は、行間にそういう人間ドラマを感じつつ読むのが正しい。
(本稿初出 2004/06/03)

★★★★★ TOEFL・TOEICと日本人の英語力―資格主義から実力主義へ
  • 鳥飼玖美子
  • 講談社現代新書
  • 2002

「私の嫌いな10の言葉」


面白い。いくつか賛同できない点もなくはないが、お勧めである。

著者は「ライ麦畑でつかまえて」の主人公がそのまんま大人になったような男。「ライ麦」の主人公のホールデン君は、何気なく使われる"Good luck"という決まり文句の裏の偽善に怒りを抑えられなかった。そんな調子だ。

中でも、最後の「自分の好きなことがかならず何かあるはずだ」が印象深い。これは教師が進路指導の時に生徒に使うような場面を想定している。著者は言う。仮に好きなことがあっても、それをたとえば職業として続けるためには、生まれついた才能と、そして特別の運が必要。才能も運もまったく平等なんかじゃない。人生は不条理に満ちている。

これは事実として正しいはずなのだけど、夢を信じれば必ず、なんて触れ回るヤツが確かにあまりにも多い。夢を持つことはいいと思うけど、大げさに言えば運と才能に関する絶望を前提にしない夢は、ただの空想に過ぎないと思う。その前提を認識して初めて、夢を実現するための具体的な戦略も見えてくる。自分の経験に照らしても、教師が助言してやるべきなのはむしろそういう事柄だと思う。
(本稿初出 2004/05/21、一部改訂)


★★★★★ 私の嫌いな10の言葉
  • 中島義道
  • 新潮文庫
  • 2003

「ザ・ビーチ (特別編) [DVD]」

レオナルド・ディカプリオが、タイを舞台に、楽園を探す心の旅を描いた物語。ディカプリオの前作はあの傑作『タイタニック』であり、彼としてはラブストーリーの二枚目主人公との評価が定着することを嫌ったのであろう、あえて晦渋な文学的作品を選んだものと見える。

主題は、日常と非日常(もしくは現実と幻想、地上と天国)という2つの世界の対比である。タイに旅に来たディカプリオは、弛緩した日常に倦んでいる。そこで彼は夢の楽園の話を聞きつける。それが物語の始まりだ。今の世界とは別の、アナザーワールド。共同体の女主人公の二面性(リーダーとしての姿とメスとしての姿)の描き方といい、豊穣と残酷を持ち合わせた海の描き方といい、すべてが幾何学的なくらいに律儀な対比に基づいている。そういう映像世界の中に、あえて「カップル+主人公」という異質な3人の組み合わせを仕込み、その暗示的な不安定さを軸にして物語は進んでいく。

文学的晦渋それ自体に価値を見出す学生が見る映画としてはいいのかもしれないが、ある程度の大人にとっては主題は退屈、表層のドラマとしても出来が悪い。映像の美しさにも特に見るべきものがない。残念なことに結末は、結局われわれには現実を生きるしかないのだ、という陳腐なメッセージで終わる。レオナルド・ディカプリオにつられてDVDを買ってしまった人たちは、実際見てて面白くないので絶賛するにもいかず、かといって、その一見知的なプロットに、つまらないと言い切っていいものか悩んだことだろう。
(本稿初出2004/05/19、一部改変)


ザ・ビーチ (特別編) [DVD]
  • ダニー・ボイル(監督)
  • レオナルド・ディカプリオ他(出演)
  • DVD発売 2008

「新版 卑弥呼の謎」

数理歴史学の手法で、邪馬台国の位置を推定し、卑弥呼=天照大神という結論を導く本。結論にいたる前提が公理系として明示されており、また、使われる手法も統計学的に一応妥当なものなので、非常に説得力があると感じられる。これを15年ほど前に読んだ時、やっと歴史学も硬直したマルクス主義史観もしくは皇国史観の負の影響から脱し、まともな科学になったのだなと感銘を受けた。

むろん前提は前提、仮説は仮説である。また、統計的ばらつきを考慮すれば、それぞれの天皇の在位期間の和が著者の結論とまったく異なったものになる可能性もある。しかしこれは一種の「フェルミ推定」の類と考えねばなるまい。フェルミ推定というのは、たとえば、「日本にある犬小屋の数はどのくらいか」「湘南海岸にある砂粒の数はくつか」というような、公の文献に頼るだけでは答えが出しようがないような問題への対処法(というよりそれへの心構え)のことである。ゆえ、「著者の結論が間違いである可能性が存在する」ことをもって批判するのは正しい態度ではない。

しかし、やはりというべきなのか、どうやらこの種の数理的な手法は、いまだ学会の主流となりえていないらしい。そればかりか、上記のような、ある程度の知性を持った人間なら当たり前の事実のはるか以前の地点から論難が浴びせかけられているらしい。この現状を眺める時、考古学や歴史学に携わる人たちの科学的精神の乏しさに愕然せざるを得ない。

たとえばたった一人の発掘捏造者の存在が、歴史区分を一変させるなどということは、成熟した学問分野ではありえないことだ。未熟な学者の書いた教科書を読まされる子供たちは、本当に気の毒だと思う。(本稿初出 2004/05/17、一部修正。)



新版 卑弥呼の謎
  • 安本美典
  • 講談社現代新書
  • 1988