2009年12月29日火曜日

勝間和代「男とウソ」


今をときめく経済評論家・勝間和代氏の私生活上のトラブルを指摘した週刊文春のレポート。勝間和代は2度離婚しているが、最初の夫との離婚には実は自身の不貞が関係していること、親権を取った3人の子のうち長女が勝間を嫌って夫の元で暮らしていること、などが語られる。

売れっ子を叩くことで自分も名を売ろうという下心があるのかないのか、牽強付会な感のある悪意の筆致にはやや閉口せざるを得ない。しかし、彼女をまるで自己啓発セミナーのカリスマ教祖のように崇め奉る女性はどうやら百万人規模でいるようだから、この種の事実の指摘には意味があるといえるのかもしれない。当たり前だが、勝間和代も、ほかのすべての人間同様、不完全な存在である。追従者になるのもいいが、その「教祖」も生身の人間であることを常に認識すべきだ。

長女との関係において、勝間は大きな問題を抱えているようだ。長女が書いたというブログの文面は非常にどぎつい。

「お母さんと下の株と近所の神社に初詣に行った。母さんが肩に触れてきたのを、なんとなく身をよじったら、お母さんに泣かれた。」

「経済評論家のK氏の自宅が本日燃えて死亡
氏は出張中で、娘二人がベッデオに横たわる姿でまっくろこおげ!(略) K氏は悲しみを胸に1冊の小説を書き起こし、大ヒット! ノーベル文学賞と経済学賞を同時に受賞! 受賞した日にひと言。『人生に無駄な経験はありません 火事を起こした長女も浮かばれていることでしょう』」


この話に話題が及ぶと、勝間は目を真っ赤にして泣き出したという。長女は母親に素朴な共感を求めているだけのように思える。肯定も否定も、最適化も価値判断もしないただの情報共有。この記事にあるブログの引用がフェアなものだと仮定すればだが、女性特有なそういう心の動きに、勝間は比較的疎いのかもしれない。

その長女の父、つまり勝間の最初の夫は、結婚に際して、勝間の実家の工場に婿に入ることを条件とされたらしい。保育園の送迎も夫の役目だったようだから、いろいろ苦労もあったのだろう。マッキンゼーで激務に晒されていた時代の勝間とのすれ違いもあり、しかもこの元夫が金銭トラブルなどを引き起こしたため、結婚生活は破綻する。

主に勝間により進められた離婚処理は、有無を言わさぬくらいに手際よいものだったらしい。しかしその後、子供との交通権などの離婚条件の実行をめぐって事態は泥沼化する。離婚後まもなく勝間は新しいパートナーと同棲を始めた。しかしそれは、勝間自身の浮気に端を発するものであった。すなわち勝間は、離婚条件に重大な影響を与える自らの不法行為を隠すことで、離婚交渉を優位に進めたことになる。

それは卑劣と言えば卑劣なのだが、この、勝間に対して悪意あふれる記事を読んでも、私は特に勝間に対して悪感情を持つことはなかった。誰しも若い頃は不完全なものである。「できちゃった婚」は若すぎた二人の青春の蹉跌だったのだろうし、それが破綻する過程では、お互いがそれぞれの限界に応じて、卑劣と非難されうることをほとんど必ずするはずである。相手を一方的に責めることは、人間としての器の小ささを認めることである。

ちなみに、記事に出てくる元夫のブログも、長女のブログも、今では見ることができないようだ。この記事のような悪意を、彼らは想定していなかったのではないだろうか。わずかな不幸の兆候を第三者が拡大するのはよい趣味ではない。このような、一般人なら確実に名誉毀損となる記事が公に出回ってしまうとは、売れっ子もつらいものだ。これにめげず、勝間氏には今後ともいっそうがんばってもらいたい。


勝間和代「男とウソ」
  • 青沼陽一郎 著
  • 週刊文春 第52巻 第1号
  • 2010年1月7日発行
  • pp.218-221

2009年12月27日日曜日

「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」


著者は陸軍大学校を出て大本営情報課の若手参謀であった人物で、戦後は自衛隊に入り、情報戦のプロとして西ドイツ駐在武官などを歴任する。この回想記全体を通して、インテリジェンス(諜報活動)についての日本国の貧しい現実を、具体的事例を元に指摘している。先の大戦について書かれたものの中で出色の出来である。面白い。

著者はその情報解析能力から「マッカーサー参謀」と呼ばれていたそうである。米軍の行動を見事に予測し言い当てるからである。などと書くと、旧日本軍にも立派な情報解析部隊があったように聞こえるが事実は真逆である。信じがたいことに、昭和18年11月に至るまで、敵米軍の作戦・戦術研究を専門に行う部署は大本営にはなかったのだ(p.59)!

堀は上司の杉田一次大佐(当時大本営情報部英米課課長)のサポートを受けて米軍の戦術の研究を重ね、昭和19年9月に「敵軍戦法早わかり」というレポートを完成させ前線に配布する(p.152)。しかし時すでに遅しであった。

戦後堀は乞われて自衛隊に入り、諜報関係のプロとして活躍する。諜報と言ってもそのような専門部隊などはなく、基本的に公開されている情報を分析するだけである。西ドイツ駐在武官として活躍するが、帰国後、シビリアン・コントロールの名の下で機能不全となっている自衛隊の現実に絶望して、53歳にて自衛隊を辞した(p.326)。最近の田母神元空将をめぐる騒動などから見ると、堀のような本物が辞めざるをえないような自衛隊および日本国政府の悲惨な現実は、今に至るまでほとんど変わっていないようである。嘆かわしいことである。

不完全情報下での意志決定をより確実なものに近づけるための方法論、という意味では、インテリジェンスの事例を詳細に記した本書は第一級のビジネス書にもなりえる。鍵は想像力と創造力である。ビジネススクール流の「効率のよい」アプローチとは逆からのアプローチとして示唆が大きいのではないかと思う。



大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)

  • 堀 栄三 (著)
  • 文庫: 348ページ
  • 出版社: 文藝春秋 (1996/05)
  • ISBN-10: 4167274027
  • ISBN-13: 978-4167274023
  • 発売日: 1996/05

「内側から見た富士通 『成果主義』の崩壊」


1993年に始められた富士通のいわゆる「成果主義」の10年史。著者の城繁幸は東大法学部を出て富士通人事部に入り、この本を書くのとほぼ同時に退社してフリーとなる。本書は、関係者ならではの内部告発感にあふれる内容だが、私怨のようなものを抑え、なるべく客観的に理想的な人事制度とはいかなるものかについて考察しているように見える。歯切れのよい言葉の数々と相俟って、人事制度の事例研究としては上質なものと言えるだろう。ちなみに著者はこの本で有名人となり、その後人事コンサルタントとして引っ張りだこの存在である。著者と同世代の者としては、キャリアパスとして実にうらやましい。

さて、ここで言う「成果主義」とは、各人は検証可能な目標を年初に立て、年度末にその達成度に応じて査定を行い、査定の結果を報酬に連動させる、という仕組みのことである。タイトルにあるとおり著者は、具体的な出来事を交えて、富士通の成果主義は失敗であったと強く主張している。

ここで誤解してはいけないのは、著者はあくまで、業績と給与を連動させるという意味での成果主義は不可欠だと考えており、旧来の年功序列の制度に回帰せよとは言ってはいないことだ。当然である。本書Chapter 6で詳述されるように、もは日本の大企業では、かつてのような右肩上がりの成長は望むべくもなく、年功序列人事制度を維持することは経済原則からしてありえない。すなわち本書の主たる主張は、富士通の成果主義の失敗は、運用上の問題に起因する、というものだと考えてよい。

ではどこに運用上の問題があったのか。著者は、ひとつだけ挙げるとすれば富士通の人事部が腐敗していたからだ、と断定しているが(p.149)、富士通とまったく同じ制度を他の会社で実行したとしても、やはりうまくはいかなかったろう。本書に書かれたさまざまな制度的欠陥から察すると、本質的には、人間の評価を、自明に計算できるような評価指標に丸投げしたという点であろう。

本書でも繰り返し述べられているように、パソコンの販売員のような職務は別にして、各従業員の業績を定量化するのは一般には難しい。というより無理である。無理なのだが、ある集団の中では、貢献度の高い側とさほどでもない側の区別は確実にある。貢献度のような尺度があるとすれば、それは上位から下位に向けて滑らかな諧調をなし、簡単に層別できるようなものではない。しかしそれでも、何らかの区別を導入し、それを給与に連動させること、すなわち、はっきり言えば、貢献度の低い側に分類された従業員の給与を切り下げることは、低成長下の経営戦略においては避けがたい。

経済原則からしてそれが不可避だとするのなら、目標管理制度と対になった成果主義制度の本質は、「自分の報酬に対する納得感の醸成」という点にしかない。上位管理職は、自らの見識に基づいて、ある程度具体的な経営行動戦略を立て、それを目標として開示しなければならない。下位の管理職は、会社の方針を部署の方針に落とし込み、整合性ある形で部下に提示しなければならない。そうして末端の従業員は、部署の方針と会社の大方針を理解し、それを自己のアクションに落とし込む。そうして評価の段になれば、そのアクション自体の成否と、それがどのように上位レベルの戦略に貢献したかを主張することになろう。そこで売り上げなどの定量的な指標があれば交渉はやりやすいだろうし、ない場合でも、定性的に、自分がチームに不可欠な人材である旨主張することは可能なはずだ。

結局、目標管理というのは、会社の戦略を末端まで浸透させるためのツールと考えるべきであり、目標管理に基づく成果主義とは、評価に対し納得感を醸成し、翌年の動機付けにつなげるための仕組みに過ぎない。目標さえ立ててればあとは成果が自動的に計量できるというものであるはずはないのである。

著者も指摘しているように、成果主義は、管理職になることが双六でいえば「あがり」に対応しているかのような、旧い年功序列制度とはまったく相容れない。チームのマネジメント業務は、それ自体専門職のようなものとして扱うべきであって、必要があれば人材管理に携わり、なければ現場でスペシャリストとして働けばよい。

本書を読んで怪訝に思ったのは、ここに登場する人事部の人たちは、一流大学を出た頭脳明晰な文系エリートのはずであるにも関わらず、人間の評価というものに対する理解がきわめて未熟に見えるという点である。理系オタクだから人間対応がまずい、というのなら(マスコミ的図式として)まだわかるのだが、取り立てて専門性もなく、かといって、人間力も低い、というのではどうしようもないのではないか。

しかし思えば、東大法学部卒などと言っても、新卒入社時で大学受験から5年しか経っておらず、しかも多くの者は、大学時代を単なるモラトリアムとしてやり過ごす。だとすれば、自分の才能を世に問うて厳しい評価にさらされるというような経験をする機会は、入社前にも、入社して「人事官僚」となりおおせた後にも、結局ないのかもしれない。強いて言えば、入社前の受験戦争がそれだったのかもしれないが、定量的評価軸を他者に完全に預けた上での画一的点数競争は、人事部員が持つべき価値観にはむしろ有害であろう。

日本は法文上位社会らしいので、本書に書かれているような切ない出来事は、結構普遍的なのかもしれない。本書が描く内容が、現在日本を覆う閉塞感を突破するヒントになっていればいいのだが。



内側から見た富士通「成果主義」の崩壊
  • 城 繁幸 (著)
  • 単行本: 235ページ
  • 出版社: 光文社 (2004/7/23)
  • ISBN-10: 4334933394
  • ISBN-13: 978-4334933395
  • 発売日: 2004/7/23

2009年12月26日土曜日

「小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争」


終戦後30年間フィリピンの山中で任務としての戦闘を継続し、そして帰国した小野田元陸軍少尉の手記。氏の生い立ち、フィリピンにて残置諜者として遊撃戦の指導を命ぜられた経緯、米軍を迎撃する苦しい戦い、3名の部下とともに山に篭った経緯、そうして旧上官の谷口元少佐から作戦終了の命令を受けるまでが生き生きと描かれる。非常に面白い。

小野田氏の意志の力はすばらしい。30年の遊撃戦の日々は、彼のそれまでの言葉に一片の嘘もないことを証明している。これは瀬島龍三のように、来た球を巧みに打つタイプの人間ではとてもまねのできないことだ。小野田氏の行動の芯は中野学校にいた時から現在に至るまで少しもぶれてはいない。これは生半可なことではない。現代の偉人であると思う。

本件については、政治的な立場によって評価は両極端に分かれよう。評価しない側は、軍国主義への加担を指摘し、30年という歳月を単に狂信の一言で片付けるだろう。しかし本書を読めば、小野田隊は、故なく戦闘を継続したわけでも、行き場をなくして放浪していたわけでもないことがわかる。ルバング島で得られた情報を彼らなりに分析して、論理的な判断として作戦を継続したのだ。

谷口元少佐から作戦終了を告げられた小野田氏は、フィリピン空軍のランクード司令官の所に赴き、軍刀を差し出しつつ投降する。しかし司令官は「軍隊における忠誠の完全な手本」などと評し、その軍刀を小野田氏に返す。日露戦争における水師宮での会見を髣髴とさせるエピソードである。フィリピン国軍への投降は、むしろ、氏の意志の力の勝利を表す輝かしい出来事であるように思える。

自分の職務と言動に責任を持つこと。小野田氏の生き方はその究極形態である。そこには世の東西を問わぬ真理を見出すことができよう。英訳版が今も広く読まれているのもそのためであろう。日本人よ、内なる義に殉ずべし。現代日本では馬鹿と言われてしまうのだろうが、人生の最期に真に心の安定を得られるのは、私の周りにもうんざりするほど棲息するオポチュニストたちでは決してないと、私は思う。


小野田寛郎  わがルバン島の30年戦争 (人間の記録 (109))
  • 小野田 寛郎 (著)
  • 単行本: 262ページ
  • 出版社: 日本図書センター (1999/12)
  • ISBN-10: 4820557696
  • ISBN-13: 978-4820557692
  • 発売日: 1999/12
  • 商品の寸法: 19 x 13.4 x 2.6 cm

「瀬島龍三 参謀の昭和史」


現在話題を集めているテレビドラマ「不毛地帯」のモデルと言われている元大本営参謀・瀬島龍三についてのルポルタージュ。昭和62年に月刊『文芸春秋』誌に掲載された「瀬島龍三の研究」をベースに加筆修正したものである。著者にはかなりの調査費が与えられていたらしく、凡百の週刊誌的噂話集のようなものと異なり、自分以外にもスタッフを使いつつ、非常に丹念に証言を集めている。いくつかの主観的感想の部分は除外するとしても、調査報道としては非常にレベルが高い。

瀬島本人の言によれば、瀬島の人生は4つに大別される。ひとつは大本営参謀としての時期。2つ目は11年間のシベリア抑留。3つ目は伊藤忠商事に入社し会長にまで上りつめる時期。最後が、政府委員として第2臨調や臨教審で政府のブレーンとして活躍した時期である。抑留時代は別にしても、各時期において望みうる最高の成功を手に入れたこの瀬島という人物は多くの人の興味を引くはずである。山崎豊子のベストセラー「不毛地帯」のモデルとなればなおさらである。

最初に言っておくが、「不毛地帯」における主人公は、確かに瀬島と似た人生経歴をたどるが、その人物の実像は大きくドラマと異なる。著者が丹念に調べた事実から察するに、瀬島は、何か大枠が与えられた時にその中でのリソースの配分に力を発揮するタイプの人間であり、価値の大枠自体を提示できる人物ではない。だから瀬島は、瑣末なことは語るが本質は語らない、といった印象を著者に常に与えている。おそらくそれは何か狡猾な計算に基づくというよりは、瀬島の行動様式そのものなのであろう。

そしてその行動様式が時の権力者に愛され、瀬島は人生の各時期において、異様とも言える成功を収める。しかしその代償として、各期において虚実織り交ぜた噂が流布されている。本書はそのそれぞれについて詳細に調べ上げている。

大本営参謀時代の瀬島には、幻の台湾沖航空戦を否定する大本営情報課参謀・堀栄三の電報を握り潰し、結果としてそれがレイテ決戦の悲惨きわまる結果につながったという批判がある(堀については別稿参照)。これは堀本人その他複数の証言があり、事実のようである。しかし本書に詳述されているように、大本営というところは、ルーズベルト大統領から天皇陛下への親電の受信を、勝手な判断で15時間も遅延させることを是とするような組織である(p.110)。その独特の雰囲気の中では、情報の握り潰しなどは日常茶飯であったろう。それに仮にその電報がしかるべく処理されていたとしても、超好戦的な空気に満たされた大本営の奥の院たる作戦課の行動には大きな影響を与えなかったことだろう。

瀬島に関する噂でもっとも深刻に語られるのは、関東軍参謀として、日本将兵のシベリア抑留を認める密約をソ連と結んだというものである。その根拠の出所は、日本がソ連に和平の仲介を依頼した際の日本側のレジュメ(「対ソ和平交渉の要綱(案)」)にあった次の一節である(p.69)。

  • 海外にある軍隊は、...、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむことに同意す(第3項)。
  • 賠償として一部の労力を提供することには同意す(第4項イ項)。

そして、関東軍の武装解除の際、このような条件がソ連側に提示され、ソ連はいわば半合法的にシベリア抑留という歴史上まれにみる犯罪行為を行ったというのである。むろん瀬島は一介の参謀に過ぎず、国家を代表してこのような条件を提示する権限などないのだが、武装解除の交渉の現場に立ち会った当事者のうち長く存命していたのが瀬島だけだったため(p.72)、瀬島には真実の証言が強く求められた。しかしなぜか瀬島は、結局一切の証言をせずに鬼籍に入るのである。

これまで、その「密約疑惑」を確証する歴史的な事実は知られていない。そもそも、ハーグ陸戦協定は、捕虜の労役を認めており、捕虜として拘束された日本将兵が労役に供されること自体は異常なことではない。同協定の第6条には、「国家は将校を除く俘虜を階級、技能に応じ労務者として使役することができる」などとある。

問題は、戦争終結後11年にわたり、1割の人間が死ぬような過酷な環境で使役をする是非である。むろんそれを正当化する根拠など何もないし、ポツダム宣言にすら反している。したがって、素人なりに常識的に判断すれば、仮に、武装解除の過程で何らかの条件や手続きの提示があったとしても、その悲劇の責任のほぼすべてはソ連側にある。日本側で犯人探しをするのは了見が違うと思う。

このように、瀬島に関する非難の多くは、反軍・反日が知性の証のように思われていた戦後日本の悲しい心性に由来するものが多く、ほとんどの場合、瀬島としても黙殺するしか道はなかったろう。残念なことに本書の著者もそういう時代的制約から自由ではありえず、たとえば、日本ほどいい国はないと述べた瀬島の言葉を捉えて、それを「偏狭なナショナリズム」などと決めつけている(p.272)。それは無茶というものだ。

そういう批判の理不尽さを差し引いても、しかし、私はこの瀬島という人物を好きにはなれないだろうと感じた。個々の局面において、瀬島のマネジメント能力は一級品だったのだろう。社会的成功を遂げたところから見て、人間的魅力にも特筆すべきものはあったのだろう。しかし先に書いた通り、彼は我々に何も新たな価値を残しはしなかったように思える。本書で紹介される彼の言葉は弱く、ありきたりだ。おそらく、瀬島は来た球を器用に打ち返せる人であったが、決して球を投げ込む人ではなかった。瀬島はその時その時で善と信ずる行為をしようとしたように見える。しかし来た球を打つだけの人は、状況が変わるたびにその行動指針も変化せざるを得ない。ある人はそれを変節と言い、無責任と呼ぶだろう。そこには人間の不可避的な弱さがあり、それを責めるのは酷ではあるが、瀬島が手にした社会的権力を考えれば、言ってみれば超人的な首尾一貫性を求めたくなるのは仕方なかろう。この点において、著者による瀬島批判には基本的に同意するものである。


瀬島龍三  参謀の昭和史 (文春文庫)
  • 保阪 正康 (著)
  • 文庫: 302ページ
  • 出版社: 文藝春秋 (1991/02)
  • ISBN-10: 4167494035
  • ISBN-13: 978-4167494032
  • 発売日: 1991/02

2009年11月20日金曜日

「境界性パーソナリティ障害―患者・家族を支えた実例集」、「『心の悩み」の精神医学」

ある人を絶賛していたと思っていたらしばらくして手のひらを返すように罵倒し始める、というタイプの人は回りに一人くらいいるだろう。そのいわば究極形態の人たちについての本2冊を紹介する。

精神分裂病(最近は統合失調症と呼ばれる)や鬱病といった「本物」の精神病患者と、正常人の境界にいる、という意味で、「境界性人格障害」と呼ばれる一群の人々がいる。本質的に人格のゆがみであるがゆえ、治療は困難を極める。その間に、「めくるめく信頼と罵倒」や「見捨てられ不安としがみつき」といった特有の行動パターンを見せる彼らに周囲は疲弊してゆく。

最初に紹介するのは「Dr 林のこころと脳の相談室」であまりに有名な林公一氏の「境界性パーソナリティ障害 ― 患者・家族を支えた実例集」である。サイト運営に関する氏の真摯な態度に敬意を評してアマゾンで買ったのだが、一読して後悔した。ウェブサイトの情報に付け加えるものが何もなかったからである。その上、印刷がなぜか喪中欠礼葉書のごとき薄いインクでされており、見にくいこと著しい。買わずにウェブを見るべきだった。


次が、読売新聞の「人生案内」の回答者として有名な野村総一郎氏の「『心の悩み』の精神医学」だ。これも特にこれと言ってコメントするまでもない軽くて薄い本で、典型的っぽい患者の症例を主観的に選択して、軽い感じで紹介してみせた本である。強いて挙げれば、これは林氏のサイトも紹介されているのだが、境界性人格障害の患者の周りに存在しがちな「お助けおじさん」について記述しているところがよい。

境界性人格障害は若い女性に圧倒的に多い。境界性人格障害の病理には、見捨てられ不安としがみつき、というのがある。見捨てられないために、身だしなみにも平均以上の注意を払う場合が多かろう。そういういたいけな若い女性が真剣に助けを求めてきた時、これは病理の一環だと冷静に対応できる人は多くはないはずだ。普通の人は患者の話を真に受けて、話の中の「加害者」に対して問題の解決を断固迫ったりするだろう。これが「お助けおじさん」と呼ばれる人たちである。

しかし実際には、患者は、周囲の人間に虚実織り交ぜてありとあらゆることを吹き込み、周囲が自分に親身に助けの手を差し伸べる状況を作ることに全力を傾けているだけなのである。それが境界性人格障害の病理なのだ。患者の訴えは、しばしば秘密の告白という形でなされ、それがたとえば、性的暴行を受けた、などのショッキングなものであることもしばしばである。しかしそのほとんどは作り事であり、善意の「お助けおじさん」がいくら奔走しても、問題を解決することなどできるはずもない。むしろ話の中の架空の「加害者」にも、「お助けおじさん本人」にも深い傷を残す結果となる。

だから境界性人格障害という病気は罪が重い。我々ができることは、この病理について性格な知識を持ち、患者に対して対応を統一することだけである。上記のような本を買わずとも、林氏のサイトに多くの症例があるので参考にしたい。


境界性パーソナリティ障害―患者・家族を支えた実例集
  • 林 公一 (著)
  • 単行本: 159ページ
  • 出版社: 保健同人社 (2007/12)
  • 発売日: 2007/12

「心の悩み」の精神医学 (PHP新書)
  • 野村 総一郎 (著)
  • 新書: 195ページ
  • 出版社: PHP研究所 (1998/05)
  • 発売日: 1998/05

ビフォア・サンライズ 恋人までの距離 [DVD]


本当に素敵な恋愛映画。欧州を走る長距離列車の中でたまたま隣り合った若い男女ふたりが、明日の朝までという約束で、列車を降りてウィーンの街を歩く。語り合ううちに、お互いの言葉の端々に引力を感じ合い、夜が明ける頃には、この出会いが運命であったとすら思えてくる。

ふたりの会話には芝居じみた雄弁は無縁だ。強がりと含羞、ためらいと高揚、そのような正負のサイクルを繰り返しながら、しかし別れの時間は淡々とやってくる。有限の時間の中にちりばめられたそういう言葉の宝石たちは、別れの瞬間に向かって時折光を放つ。Before Sunrise。夜明けの前までは。

人間は基本的に孤独だ。我々が生きている時間の大部分、我々は無言で過ごす。恋愛映画が難しいのはそこであり、だからこそ、多くの映画は本質的に希薄な人間関係を単に濃縮する誘惑にかられ、スクリーンを芝居じみた言葉の数々で埋め尽くす。この映画には絶叫も怒号もない。死もないし事件もない。しかし我々は知っている。本当のドラマは、日常に暗号のように埋め込まれているはずなのだ。この映画が描き出したのは、いわば我々の日常に隠れているかもしれない秘密のメロディだ。美しいウィーンの街並みをバックに、単にふたりの会話を長回しで取り続けることで、このようなメロディを奏でることができるとは思ってもみなかった。すごい才能だと思う。

俳優の演技もいい。特に「セリーヌ」役のジュリー・デルピーの所作には、脚本の中に自分を溶け込ませる稀有な才能を見た。

とても魅力的な映画である。


ビフォア・サンライズ 恋人までの距離 [DVD]
  • 出演: イーサン・ホーク, ジュリー・デルピー
  • 監督: リチャード・リンクレイター
  • 販売元: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • DVD発売日: 2005/06/10
  • 時間: 102 分

2009年11月19日木曜日

「The Variational Principles of Mechanics」

わが青春の一冊。機械工学科の学生であった私が理論物理に転向しようと思ったのはこの本の存在が大きい。内容は、古典物理学の金字塔・解析力学を極値原理の立場から統一的に解説した本。実用的ガイドブックの対極と言える堂々たる内容だ。

教科書としてのこの本の最大の特徴は、その物語性にある。理論物理学は人間の創造と挑戦の歴史である。それは自然への挑戦であったし、時には教会権力などの既成秩序との戦いであった。かつてはアドホックな仮説の集積であった自然哲学が、長い長い創造と挑戦の歴史を経て、どこか合目的に見える極値原理(最大化原理)により統一的に記述される。驚くべきことに、古典力学の究極形態ともいえるハミルトン=ヤコビの理論のすぐ彼岸に、20世紀最大の知的創造物である量子力学が控えていたのである。

この事実は、すべての理論はパラダイムに過ぎず、絶対的正当化は不可能だ、と考える素朴相対主義への強い異議申し立てになると思う。人間には絶対的意味において美の基準を持つ、というのが私の持論だ。人間の感じ方は確かに千差万別であるが、人間が人間という種である以上、その多様さには一定の枠がある。その枠の中に何か絶対的な価値尺度というのはあると思う。その価値尺度ないし美のモチーフのようなものに合致している理論は美しい理論と呼ばれる。パラダイムがパラダイムとして成り立つためには、満たさねばならない絶対的条件というものがある。それは素朴相対主義ではつかみきれぬものだ。

本書のクライマックス、第8章の「THE PARTIAL DIFFERENTIAL EQUATION OF HAMILTON-JACOBI」(ハミルトン=ヤコビの微分方程式)の冒頭は、旧約聖書の出エジプト記から始まる。
Put off thy shoes from off thy feet, far the place whereon thou standest is holy ground. EXODUS III, 5

靴を脱げ。汝の立てるは聖なる地である。

聖なる地。美なる理論、正しき理論のために流された幾多の血を思うと、数百年の歴史の後に現れた力学のこの究極形態は、まさしく聖なる空気に満ち溢れている。「誰が何のために」。この余りに抽象的な理論に触れた学生は戸惑うに違いない。たとえばケプラー問題を解くという観点で言えば、正準変換は必須というわけではなく、むしろ、ルジャンドル変換や作用積分の変分法など、数学的準備が余りに大変で、実用上はデメリットの方が大きいと感じられる。やはりその最大目的は、実用とは別のところにあったと考えざるを得ない。ひとことで言えば、理論的様式美の追求である。様式美に全知全能なる者の姿を投影していたというのがおそらく真実であろう。

著者Lanczosはさらに続ける。

We have done considerable mountain climbing. Now we are in the rarefied atmosphere of theories of excessive beauty and we are nearing a high plateau on which geometry, optics, mechanics, and wave mechanics meet on common ground. Only concentrated thinking, and a considerable amount of re-creation, will reveal the full beauty of our subject in which the last word has not yet been spoken. We start with the integration theory of Jacobi and continue with Hamilton's own investigations in the realm of geometrical optics and mechanics. The combination of these two approaches leads to de Broglie’s and Schroedinger’s great discoveries, and we come to the end of our journey.

我々はこれまで山のかなり高いところまで登ってきた。今や我々は美しい理論がきらめく靄の中におり、幾何学、光学、力学、そして波動力学が一同に会する高みまでもうすぐだ。我々の主題の最後の言葉はまだ語られていない。凝縮された思考と、創造への強い思いだけが、その主題の美の全貌を明らかにしてくれる。我々はヤコビの統一理論から話を始め、幾何光学と力学についてのハミルトン自身の論考に筆を進める。これら二つの手法を組み合わせて、ド・ブロイとシュレーディンガーのあの偉大な理論が導びかれる。それを見届けて、我々の旅は終わる。

これほどの陶酔感を持つ文章を、他の教科書に見出すことはできるだろうか。古典力学の究極理論が、量子力学とほぼ同じ理論形式を持つという事実はほとんど奇跡的と思われる。そして繰り返すが、その奇跡の存在において私は、素朴相対主義には与しないのである。

理論物理学が才能あふれる若者すべてが目指すべき学問でなくなった今、本書の描き出す知的世界を理解できる人間はインテリゲンチャの中でも少なくなってきている。パラダイムやフレームワークは外から与えられるもので、それをいかに早く消化することが有能さの証だ、と真顔で信じる向きも多い。そういう「受験秀才」メンタリティへのアンチテーゼとして、本書は私の中では永遠に輝き続けることだろう。


The Variational Principles of Mechanics (Dover Books on Physics and Chemistry)
  • Cornelius Lanczos (著)
  • ペーパーバック: 418ページ
  • 出版社: Dover Publications; 4版 (1986/3/1)
  • 発売日: 1986/3/1

2009年11月15日日曜日

「『朝日』ともあろうものが。」

元朝日新聞記者で、最近はオリコン裁判で男を上げた烏賀陽(うがや)氏の新聞記者時代の回想録。正直、会社を辞めた人が元の会社をののしる系の本はあまり読む気がしないのだが、これに関しては読後感は悪くない。著者のエネルギーが内向きではなく、外に向かっているからである。

一度この業界で禄をはみ、存分にその垢にまみれたろうに、新聞業界をめぐる構造的問題に対する著者の指摘はきわめて鋭い。このことは筆者が、心の中に確かな価値の座標を持ち続けてきたということを意味する。大人であればそんなことは当たり前ではないか。そう言いたいのはやまやまだが、残念ながら世の現実はそうはなってはいないのだ。

それはともかく、新米記者時代を回想する第2章で、筆者はいきなり鋭い問題を提起する。筆者によれば、新聞記者の多くのメンタリティはかつての国鉄職員のようなもので、要するに市場の反応など何も気にしていない。
とあるローカル線の沿線に、風光明媚な海岸線や、峡谷が広がっていたとする。私鉄、あるいは民営化後のJRなら、そこに展望列車つきの新造車両を走らせ、近くの新幹線駅にダイヤを接続し、沿線の風景を楽しむための列車を運行するだろう。...そうしないと客が減ってオマンマの食い上げになってしまうからだ。

が、国鉄時代は、沿線に風光明媚な名所があっても、誰もそんなものには見向きもしなかった。...。「自分たちの仕事を変えるアクションを起こし、客を掘り起こし、呼んでくる」という発想は国鉄にはなかった。国鉄時代の現場の関心は、それよりはダイヤを正確に運行するとか、事故を起こさないとか、そういう日々のルーティンワークを滞りなく進めることにあった。
ぼくのいた世界もこれと同じだ。その最大の関心は毎日のニュースを大過なく載せるというルーティンワークであって、自分たちがアクションを起こして読者のほしい情報商品を開発するという思考の習慣がない。だいたい新聞が代金をいただいている「商品」だという認識があるのかどうかも疑わしい。ぼくが新聞の現場を去って十年以上が経つが、紙面を見る限り、今もそんな発想は変わらないようだ。
(p.34-35)
営利企業のはずの新聞社において、これは驚くべきことである。こういう人たちが、日本の国際競争を論じ、日本の産業構造を論じ、日本の労使関係を論ずるのである。

数々の面白驚愕エピソードを紹介しつつ、筆者は、新聞社としてはもっとも触れてほしくない秘密に筆を進める。再販制度と記者クラブ制度である。
...書籍や新聞、雑誌も「再販制度」の適用を受けている。メーカーが価格を決め、小売店に値引き競争の自由がないこの制度は、他の商品なら「価格カルテル」(生産著による価格の自由競争阻害)として違法なのだが、レコードや書籍は「文化保護」の名目で例外的に認められている。ところが、規制緩和の流れの中で、レコードや書籍、新聞もこうした制度は消費者の利益にならない、やめたほうがいいのではないかという見直し作業が始まっていた。レコード会社や出版社と並んで、この「再販廃止」に必死で抵抗していたのが、新聞社なのである。(p.90)
かくして新聞購読料は、インターネットを通じてその情報の価値が限りなく無料に近づいた後も、価格競争とは無縁のままである。企業体としての新聞社は、再販制度という規制に取り付いて甘い蜜を吸う既得権益死守団体に他ならない。
九〇年代、世が底なしの不況に突人すると、出版業界の不振も深刻化していった。ぼくの周囲でも、雑誌がどんどん休刊になり、「週刊朝日」や「アエラ」の売上げも低迷し始めた。そんな中、同僚記者が「不況でも元気のいい企業」という特集でブックオフを取り上げようとしたらしい。

ブックオフは古本の全国チェーンストアである。というより、古本屋のイメージを一変させた「本のリサイクルチェーン店」である。古本は再販制度の適用外なので、新品本よりはるかに安い。おかげで、全国に店舗を増やしているのは周知のとおりだ。ところが、朝日を含め出版業界は、このブックオフが本の売上げを減らしている、と目の敵にしているのである。

経済原則に沿って冷静に考えれば、ブックオフで価格の安い本が売れるということは、読者の活字への需要は依然健在であり(「活字離れ」という言葉をぽくは疑っている)、出版業界が決めている価格が市場適正価格より高すぎるからにほかならない、と考えざるをえない。

もちろん、朝日がそういう意見を紙面に掲載することもあるだろう。が、それを社の主張に据えることはありえない。「本あるいは新聞の価格は高すぎる」という事実を認めてしまうと、社員の人件費(つまり給料)から抱えている社員数から、コスト構造をすべで見直さなくてはならなくなる、つまり自社の既得権益を譲らなければならないからだ。
(p.92)
記者クラブ制度にいたっては、引用するのも疲労を覚えるほどだ。マスメディアの主要な機能は、情報の選別にある。選別の後、優れた分析や解説ができればなおよいが、第1にはまずは選別である。選別ということはすなわち、「今、何が知るに値することなのか」「何を論ずるべきなのか」というアジェンダを提示することだ。

この、常識としか思えないagenda settingという言葉に、米国人ジャーナリストへのインタビューの中で出会ったとき、烏賀陽氏は「頭を殴られたような思いがした」そうである(p.116)。それもそのはず、日本の記者クラブ制度の下では、記事のアジェンダは与えられるものであり、思考の対象ではないからである。
記者クラブ取材のない「アエラ」に移ってその差を経験していたぼくは、この「アジェンダ」の意味が痛いほどわかった。記者クラブ時代は、朝クラブへ行けば、書くベき記事は印刷されて山積みになっていた。が、それがなくなってみると、自分で「書くべきニュース」(アジェンダ)を見つけてこない限り、仕事そのものがない。書くべき対象が見つからない。記者にとって、ネタがないことほど苦しいことはない。(p.117)
この絶望的な知的怠惰 ── ありとあらゆる業界、いや少なくとも「市場」の反応を意識しなければならない健全な業界では、社員に求められる最も重要な能力は、ビジネスのネタを見出すことである。営業マンであれば、新規顧客開拓能力が最低限必要されるだろうし、願わくば、新しいビジネスモデルや新しい業界に向けてのビジネス提案ができればなおよい。研究開発に携わるものであれば、新しい研究題目、進むべき方向の設定は、エンジニアとして一本立ちするための最低要件である。

繰り返すが、こういう人たちが、日本の国際競争を論じ、日本の産業構造を論じ、日本の労使関係を論ずるのである。なんと素敵なことだろう。

と、いろいろ書いているうちに、一体、この期に及んで、毎年ほとんど5万円近いお金を払ってこの新聞を購読し続けている何百万人かの人たちは、どういう心境なのかと思わざるをえなかった。新聞という紙媒体でなければ手に入れられない情報は、今やほとんどない。通常購読の十分の一以下の値段で新聞紙をそのまま電子的に読めるサービスもある(産経Netviewなど)。このエコのご時世に、資源浪費の疑いが濃厚な新聞紙の購読を続けるというのは、飲酒や喫煙と同様に、何か病的な依存性でもあるのだろうか。謎は深まるばかりである。


★★★★☆ 「朝日」ともあろうものが。
  • 烏賀陽 弘道 (著)
  • 単行本: 279ページ
  • 出版社: 徳間書店 (2005/10/22)
  • 発売日: 2005/10/22

「鍵開けマニュアル 増補版」


ディスクシリンダー錠のピッキング方法を図と写真で非常に詳しく解説したあぶない本。ピッキングツールの現物写真などもある。

詳細はマニアにしか興味はないだろうが、重要なメッセージは、シリンダー錠と呼ばれるクラスの鍵は、この本に書かれているような方法で(1週間くらい練習すれば)容易に開錠可能であり、この意味で、犯罪者にとって何のハードルにもなっていない、という事実である。

日本の錠前業界は美和ロックという会社が圧倒的なシェアを占めており、つい最近まで、マンションのドアの鍵はほぼ「MIWA」と刻印されたピンタンブラー錠であった。美和社はそのシェアを背景に、扉への取り付け規格を決める力を持っているらしい(p.214)。ちょうどMicrosoft Outlookを標的にしたコンピュータウィルスが流行したのと同様、MIWA社のピンタンブラー錠の脆弱性に目をつけた悪人がいて、2000年からの1-2年に集中的に都市部のマンションはピッキングの被害をこうむったのだった。

実は私もピッキング被害者である。まさしくこのMIWA社のピンタンブラー錠がついたマンションに住んでいて、出入り口は通りから丸見えの明るい場所だったのでまさかと思ったのだが、難なくピッキングされた。幸い保険が有効で、ノートパソコンなどの盗難物は一応それで弁償されたのだが、心理的ダメージは大きかった。一応警察にきてもらったのだが、指紋や足跡の痕跡を調べる警察の捜査もどこかおざなりで、検挙などあきらめているかのようであった。

まあそれも仕方ないことで、この頃、中国の「ピッキング学校」のようなところで訓練を受けた中国人が大挙して出稼ぎに来ていたのであった。平成14年警察白書はこのように述べている。
侵入盗の中でも、この1、2年で急に目立つようになったのがピッキング用具を使用したものである。12年中は、約2万9,000件のピッキング用具を使用した侵入盗を認知し、13年中は約1万9,000件と減少したものの、13年8月以降、再び増加傾向に転じている(図1-19)。また、検挙人員の約7割が中国人であり、組織的に犯行を重ねていた状況がうかがえる。
確定的な悪意を持った組織犯罪には、これまでの伝統的な捜査の方法は役に立たない。そのことを現場の警察官はよく知っていたのであろう。一時期は人権屋のロビー活動で止められていた入国時の指紋採取が再開されたのは慶賀の至りである。

ではわれわれはどうすべきなのだろう。本書の最後、第5章に、「新錠前の開錠」という章がある。それによれば、ディンプル錠のピッキングはほぼ不可能とのことである。
ディンプルキーとは、図6のような、小さなくぼみが複数あるカギのことですが、実際問題として、ディンプルキーを持つシリンダーに対して、「ピッキング」は有効な開錠手段ではないのです。(p.216)
ということで、錠前としてはディンプル錠をとりあえず採用し、サムターン回しなどの他の手法については個別に検討、というのがよさそうだ。とりあえず、警察庁の住まいる防犯110番とかいうページには目を通そう。


★★★☆☆ 鍵開けマニュアル
  • 鍵と錠の研究会 (著)
  • 単行本: 230ページ
  • 出版社: データハウス; 増補版版 (2002/08)
  • 発売日: 2002/08

「ゲバルト時代」



元赤軍派の活動家の面白回顧録。今では想像もつかないが、反体制運動が若者の憧れであった時代に生きた若者の、疾風怒濤ハチャメチャ青春記。

古くは樺美智子『人しれず微笑まん』や奥浩平『青春の墓標』、ついで高野悦子『二十歳の原点』あたりの悲愴感極まれりな調子とは真逆に、軽快おちゃらけな調子で話が進む。

現代は、十代の若者の周りにある世界はあまりに磐石不変に見えるので、この著者のようにいったん浪人生活に入ったなら、大学を出る通常ルート以外の世界はほとんど想像すらできないが、著者の青春時代には、アナザー・ワールドを街頭の経験から実感できたのだ。ある意味うらやましい。

キレイゴトに終始する「革命ごっこの親玉」を揶揄する著者のスタンスからの必然として、全共闘世代の若者の生態がいろいろと活写され飽きさせない。

個人的には、その後赤軍関係の事件で有名になる連中のエピソードが面白かった。たとえば数年前に逮捕がテレビ報道された重信房子は若い頃相当な美人で、銀座のホステスをやって活動資金を作っていた由(p.222)。また非業の総括死を遂げる遠山美枝子が総括を求められたきっかけとなった指輪は、革命運動に理解があった母親が、万一のときはお金に換えなさいと持たせてくれたものだったらしい(p.309)。リンチのあと縛られ放置されて、ほとんど死ぬ直前に、「お母さん、美枝子がんばる」とうわ言をいっていたとの話(坂口弘『あさま山荘1972』)と併せると、どうしようもなくやりきれない思いになる。

運動の高揚期から衰退期、そして連合赤軍事件などを経て、著者はついに運動に愛想をつかす。観念だけを肥大化させたかつての幹部たちの、ちっとも反省しない現在の生態に、著者は強烈な批判を加える。
現在の世界情勢、今後の課題としての民族と宗教と国家とグローバル金融資本の間題に、なぜ正面から立ち向かわないのか? 自称エコロジストも百姓も物書きも、相手が物言わぬ地球や無名の読者なら、自分の思い通りになるし(といっても現実には叛逆されるが)、老後の権力欲、プライド、名誉欲、趣味(?)欲を満たすのだろう。特に「革命ごっこの規玉」時代のクサレ肩書きを持ち出してきて、憲法九条を守れという時代錯誤の連中には、呆れはてて物も言えないが。
過去の失敗者が自己変革も思想の進化もできずにいるなら、深く静かに無名の老人として腐肉の塊となり、千の風になって果てるのが、六〇年代から七〇年にかけて若くして亡くなった活動家に対する礼儀であろう。(p.313)

著者は、「革命ごっこの親玉」たちのキレイごとを真に受けるほど素直ではなかった。というよりも、最初から面白さの基準を心に持っていた著者は、それに照らして面白かったので運動(というか騒動)に参加し、街頭で機動隊に制圧された経験から武装闘争の必要を感じて最左翼の赤軍派に関与した。そうして逮捕され身寄りもなくし、しかし自分の責任は自分で取るスタンスを貫き通している。

私の周りではいわゆる団塊世代の評判はすこぶる悪く、頼まれてもご一緒したくはないのだが(なぜあんなにエラそうなのだ?)、こういうオッサンであれば飲みに行っても面白そうだと思った次第。


★★★★☆ ゲバルト時代 SINCE1966-1973 あるヘタレ過激派活動家の青春
  • 中野正夫 (著)
  • ハードカバー: 388ページ
  • 出版社: バジリコ (2008/6/4)
  • 発売日: 2008/6/4

2009年11月14日土曜日

「徹底抗戦」


言わずと知れたホリエモンの書き下ろし。かつての片腕で、今は敵対関係にある宮内氏の『虚構』とあわせて読むと当事者たちの主張がよくわかる。前に書いたように、私の結論としては、堀江=大物、宮内=小物、というものだ。

あれほどマスメディアで話題になったのに、彼の容疑事実について具体的に言える人はほとんどいないのではないだろうか。彼が罪に問われた内容は下記の二つである。(p.138)
  • 偽計および風説の流布
    • ライブドアファイナンス社員によるマネーライフ社の過大評価と、それに基づいたライブドアマーケティング社との株式交換
    • 上記株式交換比率を第3者機関が決めたとの虚偽内容の公表
    • ライブドアマーケティング社の決算内容についての虚偽事実の公表
  • 有価証券報告書虚偽記載
    • 実質赤字だったライブドアを、架空売り上げ計上などを通して黒字として報告したこと
起訴事実を羅列したこれらの項目のうち、素人から見ても明確に違法だろうと思うのは、一部の株の架空取引だけで、あとは「そう解釈すればそうなるかもしれない」という程度の違法性で、それがまかり通ればおそらく経済活動のほとんどは違法になるのではないか。しかもその架空取引をやったのが『虚構』の宮内氏である。宮内本はまさに語るに落ちるという感じであり、宮内氏は、私利私欲のためか、「天才」堀江氏への対抗意識ないし嫉妬のためか、堀江氏を通さずに大きな金を動かせる仕組みを巧妙に構築していた。その責任を取れといわれても堀江氏は困惑するだけだろう。

堀江氏にはよって立つ価値観があり、それは95日間権力に拘束され自由を奪われても変わることはなかった。

罪に問われた経済犯罪の内容については微妙な点もあるのでこれ以上コメントしないが、日本のエスタブリッシュメントのトラの尾を踏んだ、という本人の分析はおそらく正しい。相手が悪かった。日本テレビの日枝会長は、『メディアの支配者』で描かれているところでは、おぞましい社内政治をクーデター的に勝ち抜いてのし上がってきた猛者だ。一方堀江氏は、大衆メディアを力と信じ、日々情報発信を続ける。大衆の王と密室の王。その争いは見ものではあったのだが、やはり青年将校と老獪な大臣では格が違いすぎたといったところだろう。

ライブドア事件に関しては、当事者たるマスメディアの報道のほとんどは信用できない。知識のバランスを取るための必読文献。


★★★★★ 徹底抗戦
  • 堀江 貴文 (著)
  • 単行本(ソフトカバー): 232ページ
  • 出版社: 集英社 (2009/3/5)
  • 発売日: 2009/3/5

「はじめての課長の教科書」



題目のとおりはじめて課長になるような人が読むべきTipsをまとめた本。軽い内容で、まあ1-2時間あれば読めるだろう。

私は普通であれば、こういうビジネス本にはあまり敬意を払わない。というのも、たいていの本は、特殊事例を過度に一般化したり、検証不可能な仮説とか方法とかを羅列しているものが多く、その結果、本全体を通して統一したメッセージを出すことができていないからだ。

ただ本書に関しては、データにあまり依拠しない文系的・定性的スタイルをとりながら、本に統一感があるという珍しい例だ。管理職の心構え、的な本の中では出色の出来といえると思う。

個々の記述はある意味常識的である。まず本書は、課長という地位が日本独特のものであり、うまく機能すれば、イノベーションの現場で大きな力を発しえることを述べる。こういうことはアメリカのMBAコースでは教えてくれないだろうから、これは本書の著者酒井氏が自分の思考の結果到達した地点なのだろう。この本の良さは、このような、受け売りでない本人の思考の成果に基づいているという点だと思う。本書の内容に統一感があるのもそのためだろう。

本書が面白いのは、上記の統一された視点から、修羅場対処法のようなものを明確に示していることだ。たとえば、政敵が現れたらほめよ(p.133)、などという助言は机上で考えてはなかなか出てこない。

また、問題社員が現れたときの対処原則に絡んで、

企業活動の目的は、企業に関係しているすべての人をできる限り満足させることにもあり、その「すべての人」の中には、問題社員も含まれています
多少の問題があることを理由に事実上のクビにしたり、完全に無視してしまうようなら、いずれそれを悔いることになります。逆に、こうしたことをまったく罪と感じないような人間には、人の上に立つリーダーたるべき資格がないと言ってもいいでしょう。
(p.143)

と著者は言い切るのだが、これもまたなかなか言えないせりふだと思う。

その他、自分の下のベテラン係長が言うことを聞かなくなった時、違法スレスレの行為を求められた時、昇進させるべき部下を選ぶ時、など、相当網羅的に著者の考えが述べられている。

「しょせん」ビジネスハウツー本なので、学問的検証に耐える統一原理のようなものはもちろん期待できないが、つい忘れがちなことを思い出させてくれるという意味で、時折手に取るのは悪くない。この意味で買って損はない。


★★★★☆ はじめての課長の教科書
  • 酒井穣 (著)
  • 単行本(ソフトカバー): 232ページ
  • 出版社: ディスカヴァー・トゥエンティワン (2008/2/13)
  • 発売日: 2008/2/13

「考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則」

「仮説思考」に関しては、まともな理系研究者なら得るものはないと書いたが、これまたコンサルティング業界での必読本と言われている Barbara Minto、「考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則」については、一応は目を通すのも悪くないかもしれない。

本書は基本的に、忙しいエグゼクティブに自分の言いたいことを伝えるための基本技法についての教科書と言える。最近では本書のスタイルが業界標準になってしまっているので、これに従わないプレゼンテーションは、よほど画期的なものでない限り、最初にネガティブイメージを与えてしまうことが多いことに注意が必要である。

本書で書かれていることは、たとえば、結論を最初に提示し、「なぜならば」、という形で根拠を述べよ、と言うような、ある意味当たり前のことである。しかし普通の人は、自分の思考の順番に資料を作るのが一番自然だと思う傾向にあり、本書で推薦するようなスタイルには抵抗を感じる向きもあるかもしれない。しかし考えてみれば、自分の思考の順番を聴衆すべてが自然と思うとは限らないのである。だとしたら、最初に到達点を示すのが親切というものである。

熟読してどうこうというよりは、これまで自分の奉じてきた思考表現スタイルと、コンサルティング業界での標準的スタイルとの対比を眺める、という程度に使うエンタメ本と考えれば、「仮説思考」同様悪くない本だと思う。


★★★☆☆ 考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則
  • バーバラ ミント (著), Barbara Minto (原著), 山崎 康司 (翻訳),
  • 単行本: 289ページ
  • 出版社: ダイヤモンド社; 新版版 (1999/03)
  • 発売日: 1999/03

「仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法」

現代の日本で有能とされる学生の多くを吸収しているコンサルティング業界でもっとも有名な本のひとつである。内田氏はいわばカリスマ・コンサルタントとでも言うべき人である。

まともな研究者、つまり、新しい問題設定に基づいて解決策を考え、それを他人が理解できるような形式で表現できる人、にはおそらく得るものは何もない。実際、本書には、免疫学の世界的権威の話として次のような一節がある。
ランドシュタイナーや石坂公成は、頭の中に、「きっとAという答えが出るはずだ」という仮説をはじめにもち、全体のストーリーを描いた上で、その仮説が正しいかどうかを実験で検証するという方法で研究論文を書いていた。一般的なアプローチとはまったく反対である。私はこの話を知ったとき、仮説思考は分野を超えた活用することができるのだと実感した。(第1章4節、p.45)
「一般的なアプローチ」というのは、オチを考えずに漫然と仕事をこなすスタイルを言うらしいが、理系の研究業界では、そういうスタイルを奉じる人は自然と淘汰されるので、仮説思考の方が一般的なアプローチである。

しかし、言われて見れば確かに、一流大学の理系であっても、大局観なしにただデータを取る、のようなスタイルで実験をする学生も多いだろうし、いわんや、論証、ということに関する常識のない文系の人たちには、この仮説思考というのは目からウロコなのかもしれない。言ってみれば、本書を読んで感動するのはある意味でまともな知性の土台がある人で、全然感動しない人は、一流研究者の思考スタイルを身に着けている超優秀な人か、あるいはこの程度のエンタメ本すら読めない悲しい一般庶民かのどちらか、ということになる。ベンチマークにいいのかもしれない。

本書に例として出るのは、コンサルティングビジネスという、サービス業の典型のようなものなので、最近何かと話題になるサービス科学のひとつのテキストとして参考になる。

特にここで強調したいのは、仮説は必ず検証されなければならない(検証不可能な仮説を立ててはならない)、というものだ。内田氏はさすがに超一流のコンサルタントだけあって、第4章を「仮説を検証する」と銘打って、実験、分析、ディスカッション、というような方法論を提示している。

このようなことは当たり前だと思うのだが、仮説を立てっぱなしで検証のサイクルを何も考えていない「方法論」を提示するのは、割と世間ではありふれた話である。ビジネスの結果である意味フェアに評価されるコンサルタント業界と、科学的検証のプロセスを通して合意を形成する科学の世界が、ある意味つながっているというのは興味深い。


★★★☆☆ 仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法
  • 内田 和成 (著)
  • 単行本: 240ページ
  • 出版社: 東洋経済新報社 (2006/3/31)
  • 発売日: 2006/3/31

「虚構―堀江と私とライブドア」



久々に、絵に描いたような小人物の本を読んで、不愉快を通り越してむしろ爽快である。

宮内氏と堀江氏、双方の本を読み比べた結論は、堀江=稀有の大物、宮内=よくいる小物、というもので、一連の騒動も、邪悪な何かが暴かれたというよりは、「出る杭が打たれた」というただそれだけの話に過ぎないように思える。

経済活動は多彩であり、そのすべてを事前に法で予測し規制することはできない。多くの場合に違法か合法かわからない領域が存在し、そういう領域では法の専門家の主観的解釈だけが頼りである。しかしその解釈は通常一通りには決まらない。だからこそ、いつもは庶民をご指導下さっているマスメディアの皆さんも、時折摘発を受けたりするわけだ。
カラ出張、経費水増し 朝日新聞社が4億円所得隠し 
産経ニュース 2009.2.23 19:19
朝日新聞社(東京都中央区)が東京国税局の税務調査を受け、出張費や取材費の過大計上があったとして平成20年3月期までの7年間で、計約4億円の所得隠しを指摘されていたことが23日、分かった。記者がカラ出張などで経費を水増し請求していた。同社が明らかにした。

読売新聞が1億円所得隠し 社員同士の飲食、経費計上
産経ニュース 2009.5.31 12:03
読売新聞東京本社が、東京国税局の税務調査を受け、平成20年3月期までの7年間に約1億円の所得隠しを指摘されていたことが31日、分かった。取材費の一部が社員同士の飲食費だったと指摘されたとみられる。
宮内氏は横浜商卒の有能な税理士で、ライブドアでは堀江氏の側近としてファイナンス部門を任され、かなりの収益を上げていたようだ。本人は、ライブドアは堀江の会社だと繰り返すが、ファイナンス部門の業績を語る口は饒舌で、まるで自分がライブドアの利益のほとんどを上げていたかのようだ。また、堀江氏と異なり、自分はつつましい報酬で堀江に使えてきたといわんばかりだが、実は自分でも相当不明瞭な株取引で莫大な利益を上げ、フェラーリを購入したりしている(p.122)。

率直に言って、本書を通して、首尾一貫性にまったく欠ける印象を与えるのは否めない。本人は自分が堀江のように「天才」でない自覚があったのだろう。そうしてNo.2の地位でうまく会社を回してきた。しかし逮捕されてみればいまや自分の上にあるのは、堀江ではなくて、検察である。すばやく取り入る相手を変え、堀江との対決を選んだのだろう。そういう意地悪な見方をされても仕方ない気がした。

価値の軸が確立していない輩。このような輩は世の中にはたくさんいて、国家とか会社とかそういう枠が磐石なうちはその中で力を発揮する。価値の軸を確立することに力を注いでいないので、投入するエネルギーの有効活用という意味ではむしろ有利だったりする。しかし、いざその枠が壊れると、このように醜態を晒す。幸いそのような人物を見抜く目は持っているつもりだが、そういう人たちの中で生きるのはまったく疲れることではある。

★★☆☆☆ 虚構―堀江と私とライブドア (単行本)
  • 宮内 亮治 (著)
  • 単行本: 248ページ
  • 出版社: 講談社 (2007/03)
  • 発売日: 2007/03

「ああ、堂々の自衛隊」


これは面白い。今では有名になってしまった不肖・宮嶋のデビュー作。ピュリッツァー賞を夢見る貧乏フリーカメラマンが、自衛隊のカンボジア派遣に同行して繰り広げる珍道中である。

日本国政府も何も意味なく海外派遣をしているわけではなく、自衛隊はそれを命ぜられたから任務として粛々と実行しているわけである。しかも丸腰で。にもかかわらず、なぜか日本のマスメディアは、何か隠された陰謀がそこにあるかのように書く。陰謀があるならそのように調べて、ジャーナリズムとして報道すればいいのだが、報道はいつも枝葉末節、現地で交通事故を起こしたとか、そういうことばかりだ。

本書は、著者の趣味もあるのだろうが、ひたすら軍国少年口調で、朝日新聞などの反日マスメディアを揶揄する。冷房の効いた高級ホテルに宿を取るであろう気高い新聞記者様と異なり、本人は、末端の兵士と同じ(かそれ以下の)場所に住み、同じ船に乗る。得られる情報のリアリティに圧倒的な差が出るのは当たり前で、この点も既存大メディアへの批判になっている。

しぶとく今でも社民党の代議士になっている辻本某主催のピースボートご一行様の行状を暴露した部分はなかなか貴重だ。現地におけるインフラ構築のための工事を指して、環境アセスメントを行ったのかと難詰し(p.178)、隊員との対話集会を要望したと思えば、

「従軍慰安婦を派遣するというウワサがあるが」(p.182)
「隊内でコンドームを配っているとか。(相手の隊員を指差して)あなたのポケットにもあるんでしょう?」(同)

などと、どう考えても隊員に直接言ってもしょうがないことを言い放って自己満足に浸ったりと、これだけでも、社民党が泡沫政党に堕し、日教組的なるものが国民の大多数から蛇蝎のごとく嫌われる理由がわかろうというものだ。

戦争を嫌う気持ちはよくわかるが、隣国の少女を拉致したり(朝鮮民主主義人民共和国)、隣の民主主義国への武力併合を明言するような国(中華人民共和国)が存在するのである。 その中で自衛隊の活動をやめさせたらどうなるかは、たとえば、1ヶ月警察の活動を禁止してみて、この国で何が起こるかを見てみたらいいと思う。愚かなことである。

★★★★★ 「ああ、堂々の自衛隊
  • 宮嶋 茂樹 (著)
  • 出版社: 双葉社 (1997/06)

「光の雨 特別版 [DVD] 」


前項で取り上げた「実録・連合赤軍」と同様、光の雨(高橋伴明監督)も21世紀になって公開された連合赤軍関係の映画である。

これは非常に優れた作品だと思う。冒頭から詩的だ。

革命をしたかった。生きるすべての人が幸せになる世の中を作りたかった。

薄暗い画面に二人の若者が現れる。海を泳ぎ、テトラポットにたどり着き、飛行場の滑走路に火炎瓶を投げつける。背の丈ほどの赤い炎がスクリーンを照らし、彼らは「反米愛国」の赤旗を振る。

各人の持っている能力を100%発揮でき、富の分配はあくまで公平で、職業の違いがあっても上下関係はない。人と人との間に争いはないから、戦争など存在し得ない。そんな社会を作る歴史的な第一歩として、人々を抑圧する社会体制を打ち破る革命をしなければならない。そのために、僕らは生きていた。

飛行場全体から見ればその炎はあまりに小さいが、彼らから見ればそれは彼らの分身、自分たちの英雄的な行為に呼応して立ち上がる人民のメタファーである。


原作は立松和平の手による同名の小説である。これはいわくつきの作品で、立松はこの小説をすばる誌に連載している当時、ニュースステーションなどに出演する売れっ子タレント文化人だったのだが、この小説で盗作騒ぎを起こして結局タレント生命を絶たれた。盗作というのは、坂口弘の支援者から『あさま山荘1972』からの剽窃を多数指摘されたことを言う。

原作では、坂口弘と思しき老人が、死刑制度廃止後の日本で、若き浪人生のカップルに昔話を語るというスタイルで話が進む。しかし映画版ではこの静的な設定を嫌ってか、劇中劇の設定となっている。かつて自ら運動に手を染めた監督が、『光の雨』を撮り始める。しかしおそらくはかつての仲間から、符丁めいたはがきが時折届くようになり、監督の精神が不安定になる。ついには失踪した監督を引き継いで、若い世代を象徴する荻原聖人が映画の撮影を引き継ぐ。この荻原が、原作において坂口の話を延々聞かされる浪人生・阿南満也に対応させられている。まさに見事な改作である。

この映画の白眉は、山岳ベースでの総括の場面で、「北川」が監督に徹底的にNGを出され、いわば「総括」を求められるところであろう。坂口弘役の「玉井」に投げ飛ばされるシーンを何度も何度も繰り返し、消耗し切って呆然とする「北川」に、劇中劇の中で監督が問う。

「北川君、君がさっき言った『革命戦士』って何だ?」
「...わかりません。」

このシーンにおいて、「共産主義化」とか「革命戦士」とか、未定義で曖昧な言葉をメンバーに暴力的に強制した連合赤軍幹部たちの残酷さが浮き彫りにされ、そしてそのような残酷さが、何も特別なことではなく、われわれの日常にも普通に存在するということが伝えられる。理不尽で苛烈な上司や教官というのは珍しい存在ではない。しかし多くの場合われわれは、そのような存在がしばしば引き起こす負の連鎖の中に絡め取られたときに、それを止める術を持たない。「なぜそこまで我慢したのだ」。外から見れば常にそうなる。しかしそれは「外」にある座標軸を使った時に初めてそう言えるのであって、暗い海中では上下の感覚を失うのと同様、理不尽の磁力の中で方向感覚を保つのは常人にはできることではないのだ。

それでも、企業や学校であれば、そのゴールは社会という枠の中でいかに階梯を上向きに進むか、というところにあるため、命まで奪う必要は普通ない。しかし、かつての若者たちのゴールは社会変革にあった。論理的に言って、それは、警察や軍事といった強制力を自らの責任のうちに持つということを意味する。であるなら、残酷さの行き着く先が、生物としての存在自体を問題にする地点にまで行ったのはしごく当然のことである。

若松孝二監督の荒っぽい作品と異なり、各俳優のセリフ感がかなり統一されているのも心地よい点だ。山本太郎のようにやや芝居がかった手合いもいるにはいるのだが、主役「玉井」役の池内万作の作りこまれた表情と、何より永田洋子を演じる裕木奈江の演技には本当に感嘆した。テレビドラマに出ていた元アイドル系タレント、くらいの認識しかなかった自分を深く反省した。私は映画業界に詳しくないのだが、この最高の女優に対し、業界は何か報いてあげているのだろうか。

連合赤軍事件を描いた映画を2本ほど見てきた。2000年代になって、比較的客観的にこの事件を取り上げた映画が相次いで出されたという事実は興味深い。次世紀になりようやく、彼らのしたことは無色透明な歴史となり、映画や小説という形でそれぞれの色付けを得て、いわば大衆の中に流れ込んだ。大衆と共に新しい歴史を紡ぎ出すこと。それこそ若き革命家たちが熱く熱く目指したものであった。しかし紡がれたのは結局このような娯楽作品だけであり、それも主体なき人々の傍観の中で無為に消費されてゆくばかりである。歴史の審判とは、まさにこういうことを言うのであろう。

★★★★★ 光の雨 特別版 [DVD] 
  • 出演: 萩原聖人, 裕木奈江
  • 監督: 高橋伴明
  • 2002年

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]」


連合赤軍事件を扱った2つの映画を取り上げてゆきたい。

実録・連合赤軍は、長らく反権力の立場で映画を撮ってきたらしい若松孝二という監督の作品だ。1970年前後のニュースフィルムを使った解説的冒頭から始まり、元連合赤軍メンバーの手により公開されている書籍(『あさま山荘1972』、『兵士たちの連合赤軍』、『十六の墓標』など)に記された事実を淡々と映像化してゆく。

当然、セリフはかつての学生用語満載となるわけだが、そのほとんどは悲しく画面から浮き上がり、つくりの粗さが目立つ。特に、塩見孝也役の尊口拓とかいう俳優が「ブルジョアジー諸君!」と読み上げる場面と、 永田洋子役の並木愛枝が赤軍派と党史を公刊する際の演説の場面のヘンテコな抑揚はもはや見るに耐えず、思わず早送りしそうになったくらいだ。さらぎ徳二役の佐野史郎はその点さすがで、生硬な棒読みセリフのあふれる中、日常と革命用語の滑らかな階調を表現していた。一流のオーケストラの指揮者は、個々の演者の力量に差があったとしても、全体をひとつの有機体のようにまとめることができる。しかしこの映画には優れた指揮者が欠けている。個々の俳優の力量が無残にスクリーンに丸出しであり、下手なアンサンブルといった印象だ。

革命運動の活動家であっても、革命はあくまで全人生の一部でしかない。食事もするし買い物もしなければならない。多くは親も兄弟もいるだろう。このことから必然的に、われわれの発する言葉は、日常と何らかの意味でつながっている。ゆえ、本を読むような口調で話す、ということは狂人でもない限りありえず、政治の言葉であったとしても必ず、高揚・韜晦・逡巡、といったサイクルをその言葉のうちに持つ。その与件を共有できないという一点だけでも、監督が何を撮りたかったのか、きわめて理解に苦しむところである。

さらに納得いかないことに、「実録」のはずが、あさま山荘に立てこもった5人の一人「少年A」こと加藤元久に、警官隊の突入寸前、メンバー全員が死を覚悟した場面で、「みんな勇気がなかっただけじゃないか!」と叫ばせる(*注)。もちろんそんな事実はない。そもそも、末端の一兵士、それも16歳だかの少年が、CC(中央委員会)の坂口弘、坂東國男、吉野雅邦らに暴言を吐くということは、それまでの山岳ベースでの地獄の粛清の経緯を考えれば、想像すらしにくいことである。

*注。加藤元久は2名の兄と共に山岳ベースという「ユートピア」に赴いた。『連合赤軍少年A』の著者・加藤倫教は元久の実兄。その上の加藤能敬は非業の総括死を遂げた。

改めて言いたい。自分の映画に「実録」と銘打ったこの監督は、一体何を撮りたかったのか。

長くなったので、次項では「光の雨」を取り上げる


★★☆☆☆ 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]
  • 出演: 坂井真紀, ARATA
  • 監督: 若松孝二
  • 2009年

2009年10月25日日曜日

「奪還 ー引き裂かれた24年ー」


北朝鮮に拉致され、24年後に帰国できた蓮池薫さんのお兄さんの手記。

淡々とした記述の中に、無法国家北朝鮮への憤りは当然としても、「無能国家」日本への呪いが垣間見えて考えさせられる。文章や構成などよりも、その内容の痛切さにおいて星5つ。

ところで、小泉訪朝以前に、拉致問題に対し冷淡な対応をしていた人間を私は決して信用しない。たとえば、2000年ころ試みに、何人かの同僚に北朝鮮のこの悪行を話題にしたことがあった。ある人は無言の冷たい視線で私に対し、ある人は社会党の公式見解のようなことを言った。同僚には在日家庭に育ち学生時代に帰化した男もいて、この男は人間的魅力にあふれたすばらしい男だったが、彼は何も言わなかった。何も言わなかったが、後日、自分の父親の話として、金正日の発言に衝撃を受けたと語っていたから、きっと悲しい思いをいていたのだろう。

実は私自身もかつては拉致については半信半疑であった。大韓航空機事件をルポした野田峯雄の本を読んで、一時はデッチ上げと信じたこともあった。しかしその後、いろいろな情報に触れると、これをでっち上げのように言う方がどうかしていると確信するようになった。

北朝鮮が国際テロを起こす国家であることは史実に照らして100%確実である。青瓦台襲撃事件は金日成も認めた犯行であるし、ラングーン廟爆破事件は北朝鮮に対しては非同盟中立国であるビルマが北朝鮮と断交をするに至っている。その上に、大韓航空機爆破事件である。

その上、北朝鮮が拉致に関与していたことも、小泉訪朝はるか以前に確実なことであった。宇出津事件では拉致の実行犯が逮捕されている。八尾恵の「告白」という事件もあった(『謝罪します』参照)。

普通に調べれば続々出てくるこれらの事に目をつむるというのは、高校生ならいざ知らず、大学まで出た大人のすることではない。真心さえあれば北朝鮮とも友好に付き合える、ようのなことを言う同僚たちの知的怠惰に深い絶望を感じた。そしてそういう輩に限って、金正日の自白前にはそのようなことはまだ疑惑でしかなかった(したがって自分は悪くない)、などと開き直るのである。自分の頭で考えることを省略し、いつも「正解」を外から丸呑みしてきた弛緩した生き方の、何よりの証拠である。

★★★★★ 奪還―引き裂かれた二十四年

  • 蓮池 透 (著)
  • 文庫: 213ページ
  • 出版社: 新潮社 (2006/04)
  • 発売日: 2006/04(単行本初出 2003)

2009年10月4日日曜日

「優しさをください―連合赤軍女性兵士の日記」


連合赤軍事件で殺された12名のうちのひとり・大槻節子の日記。東大闘争がピークに達する68年末から、革命左派が極左武装闘争を開始した71年半ば頃までの彼女の内面の動きが時に詩的に綴られる。正直なところ、どうせ生煮えの政治用語ばかりの退屈な本だろうと思い、まるで期待していなかった。しかし意に反して面白い。当時の時代の雰囲気に興味があり、大槻節子をめぐる3つの事件(上赤塚交番襲撃事件印旛沼事件山岳ベース事件)の知識があれば、詩的な言葉の裏にある思いに強く共感できるのではないかと思う。

本書の多くの部分は、恋人のキタローこと渡辺正則についての思いに費やされている。政治の季節の党派の言葉で彩られているけれども、基本的にそれは誠実に生きたいと願う若い男女の、切ないやり取りの記録である。

しかし1970年末に彼女が属していた党派が起こした大事件が、彼女の日記の筆致を一変させる。上赤塚交番襲撃事件である。この事件で、彼女もよく知る同志であった柴野は射殺され、恋人・渡辺も重傷を負い獄につながれる。それまで観念的世界の産物であった暴力や死が、強いリアリティをもって彼女の想念の世界を支配するようになる。

その恐怖と葛藤、そして恋人を失った不安定さのうちに、地下潜行中の彼女は、あれほど焦がれていた恋人を、俗な言い方をすれば、裏切る。71年2月27日の文章はそれを暗示する。


「哀しみが覆いかぶさり、耐え難い空洞をもち、彼は我の内に響いては来ず、ある時は怒りを嫌悪を生起させさえした。」(p.166)

しかし彼女は、どういうわけかこの「彼」ことニヒルな文学青年に惹かれてゆく。彼をめぐる彼女の感情の正負の位相の反転はきわめて激しい。

「私は何を好んで、いや何に魅かれて、彼の門を叩いたのか。彼のあの反吐をはきたくなるような内面の志向、かたくなな蝸牛の城。」(p.182)

「彼の中にある、いわば崩壊の兆しを私自身が自らの内にも予感するからか。」(p.182)

「最も嫌悪したい。実にいやらしい、不健康さを装っているが故に不健康な彼一切を嫌悪する。」(p.184)

「狂気した情念の、そのあまりの虚しさに、水をたたえてはおかぬ広漠たる砂地のように枯渇した吐息がもれる。」(p.185)

「こんなにも内部にその位置を占められていて、こんなにもいちいちのことに生身を傷つけられて...。」(p.186)

「そう、何を隠そう、彼を私のものとしたいのだ。無縁であることを拒否したいのだ!」(p.188)

一旦は転向して起訴猶予を得たこと。英雄的に闘った同志を裏切り、文学青年との情事におぼれていること。そして、身近に感じた暴力の恐怖。これらの混沌の中で、彼女が自己浄化・自己破壊の衝動に駆られたとしても不思議はない。

おそらく、彼女が山岳ベースに行かなかったとしても、彼女の先には黒く大きな穴が待ち受けていたに違いない。それをうやむやにやり過ごすにはあまりに彼女は若かった。

実際、日記が途絶えた後の彼女の先にあったのは地獄であった。かのニヒルな文学青年・向山茂徳は、権力との内通の嫌疑から、組織により処刑が決定される。坂口弘の手記によれば、その決定に最も大きな役割を果たしたのは大槻節子である。「向山を殺るべきだ」。彼女は永田洋子にそう言ったという(あさま山荘1972(上)、p.328)。

その自己浄化の衝動の先に、山岳ベースでの彼女の総括死があったのである。私はそこに、どこか必然の物語を見た。

★★★★☆ 優しさをください―連合赤軍女性兵士の日記
  • 大槻節子
  • 彩流社(新装版)
  • 1998

2009年10月2日金曜日

「壊れた尾翼―日航ジャンボ機墜落の真実」

著者は航空力学の権威。科学的に説得力のある議論が展開されており、陰謀論者の主観的かつ恣意的なストーリーを一蹴する力強い内容。本書を読めば、日航機事故の原因がほぼ理解される。

急減圧があればそれは加速度計に反映される。そしてその減圧の速度は機体容積に大きく依存する。これらは明白な科学的事実であり、反論の余地がない。ただ、この点を理解するには力学についてのある程度の知識が必要。多くの陰謀論者はそうではないので、話は永遠にかみ合わないのかもしれない。

基本的に非常に優れた労作だと思うのだが、文中何度も出てくる江連という記者が、実は美人の女性記者であることが一番最後に明かされ、そこで一気に読者は白けてしまう。女の尻を追いかける色ボケ老人の話だったのか、と。話の本筋にこの女性記者の存在は一切不要だ。著者はプロの文筆業者ではないから仕方ないにしても、このようなバカバカしいストーリーにした編集者の力量を疑わざるを得ない。まったく惜しい。

しかしそれを差し引いても、日航機事故についての、保存の価値ある資料である。将来の全面的書き直しを期待する。
(本稿初出 2005/11/13)

★★★★☆ 壊れた尾翼―日航ジャンボ機墜落の真実
  • 加藤寛一郎
  • 講談社プラスアルファ文庫
  • 2004

「擬態うつ病」


精神病についての超有名サイトを主宰する著者は、非常にプロ意識の高い精神科医である。自称うつ病すなわち「擬態うつ病」の存在を明言すること。「一般受けすること」を至上命題にする狙う書籍やマスコミではなかなかできないことである。耳あたりの良いことを言っていれば患者には感謝されるし、そこそこ本も売れるのだから。

とはいえ、この本は別に擬態うつ病を目の敵にしているわけでも、擬態うつ病の事例を列挙したような本でもない。むしろ、うつ病についての一般市民の理解と誤解を、うつ病の病理を初等的に解説しつつ、淡々と愚痴ったような本である。具体的事実の指摘に特に目新しいものはなく、やはりこの本の価値は、勇気とプロ意識を持って「擬態うつ病」の存在を明言したことに尽きるだろう。

なお、うつ病患者には読ませるな、のようなレビューもあるようだが、それほど「濃い」本ではないことは今一度指摘しておきたい。気になるようなら、著者の主催するサイトにまず目を通して見ることを勧めたい。

★★★☆☆ 擬態うつ病
  • 林公一
  • 宝島社新書
  • 2001

「静かな自裁」


事実自体は極めて文学的である。

操作ミスを惹起した潜水艇の設計を恥じ、黙して自裁した元海軍造船官。その責任の取り方の潔さは、事件についての述べられたすべての言葉の軽さを裏から照射し、結果として嘲笑しうるほどの重みを持つ。私は著者に、この極めてドラマティックな事件を文字にするにあたり感ぜずにはいられぬはずの逡巡を期待した。

この作品は、著者自身の分身である主人公たちが事件の謎解きをしてゆくという、小説的なスタイルを取っている。しかしそれがゆえに、どこまでが著者が調べた事実で、どこからが創作なのかが読者にはわからない。創作交じりのこの作品で、プライバシーを暴かれ、あるいは悪し様に言われた人たちを気持ちを思うと、なぜ著者と編集者がこのような形式を選択したのか私にはわからない。

はっきりと私は不愉快であった。偽主人公たちの言葉は、この厳粛なる死者に対峙するにはあまりにも白々しく、それがいわゆる「文学的」に整っているがゆえになおさら、人間としての軽さから来る著者の限界を思わせた。むしろ、大学生のレポート程度の稚拙な文章でもいい、真剣に事実と格闘して欲しかった。

この事件に興味を持つ人なら誰でも怒りを感じ、興味のない人なら小説として退屈すぎるであろう駄作。

(★☆☆☆☆ 飯尾憲士、静かな自裁、文芸春秋、1990)

「あなたの心が壊れるとき」


精神科医の書いた本としては最高の部類に入る。他人事のように症例を述べるのではなくて、自分はどう生きるべきかという観点から書かれており、その点において類書の追随を許さない。真摯に生き続けてきた著者の態度が伝わって、非常に読後感の爽やかな書となっている。

まず著者は、社会という場で行動するには、ゲームのルールとでも言うべきものがあると説く。だから、コギャルには「君は醜い」と言ってやるべきなのだと説く。それはしかし、すべての人間に愛あるゆえの、愛の罵倒とでも言うべきものだ。

ついで著者は、最近の日本社会での、価値観の貧困を指摘する。学歴勝者、スポーツ勝者、芸能界勝者、それだけの価値観では余りに貧困ではないかと。自分の能力の適性と限界をわきまえた穏やかな生活を送ることを目指せばいいでないかと。

そしてその感慨は、実は、社会にはゲームのルールがあるのだ、という冒頭の指摘と裏でつながっていることを読者は知る。すなわち、ルールを構成しているのは、一握りのスターではなくて、静かに生きている市井の人々なのだと。

そのような主題が、豊富かつ正確な医学的知識により裏打ちされる。かつて社会を根源から思考し切ることを目指し、そして挫折したたこの著者ならではの力強い筆の運びに、感銘を覚えた次第である。
(本稿初出 2004/9/26、一部修正。)

★★★★★ あなたの心が壊れるとき
  • 高橋龍太郎
  • 扶桑社文庫
  • 2002

2009年10月1日木曜日

「それでも会社を辞めますか? 実録・40歳からの仕事選び直し」


百年に一度というこの大不況に間に合わせたかったのだろう、その努力は認めてあげたい。

しかし残念ながらこの本の完成度は、同種の本、たとえば城繁幸の一連の著作に比べれば2割にも満たないと思われる。定量的データに乏しい内容といい、表現の陳腐さといい、新聞の書き散らしルポと同レベルで、少なくともキャリア形成について真剣に考えたことのある人であれば、買う価値は、おそらく、ない。

3章に出てくるおもちゃ屋を開業した元公務員の話はすごい。単調な仕事に嫌気が差した彼は、ある日役所を辞めてしまう。次の職を決めずにだ。はて自分のやりたいことは何だろうと考えて、自分は子供が好きだからと、彼は地元におもちゃ屋を開業する。小売の素人がだ。

普通の読者はここで心配になる。実際、「経営的には確かに厳しい」ようである。当然だろう。「けれど、数字のことはなるべく考えないようにしている」(p.88)。と、ここに来て読者はこの人の正体を知る。「数字」やコストを考えないで済むのは公務員だけだ。実ビジネスはひたすら数字との戦いだ。それを考えたくないのなら、物売りには多分向いてない。この人は公務員的な頭のまま、ビジネスごっこをやっているわけだ。

にもかかわらず著者はひたすら応援モードである。「働くことの喜びを日々感じている」「自由に生きることの喜び」「どんなに厳しい現実の波にさらされても、やりたいことのテーマがぶれることはない」(p.90)...。日教組の教師のような空疎すぎる言葉が並ぶ。

この現実感のなさはどこから来るのか。

この本には著者本人の苦労談も詳しく載っているので、著者の背景に思いをめぐらせてみるのも一興である。私に関して言えば、著者自身の失業時代の生活を描写する次の一節を読んで、著者とは一生相容れないだろうと確信した。
「私は自炊ができないので、もっぱら食事は外食で毎日2000円近くかかる」(p.120)。

金に困っているのに、自炊ができないと言い切るセンス...。著者は結局、何かにぶら下がることを暗黙に前提にしたい人なのであろう。件の元公務員氏を応援したい気持ちも分からなくもない。

6章以降は、もう、読むのもつらい。
「社会全体が、...、『インディビデュアルソサエティ』(独立社会)へと刻々と移り変わりつつあるのではないだろうか」(p.155)。

「だろうか」って...。この著者には、社会問題を語る力量がないことは確かだ。

★☆☆☆☆ それでも会社を辞めますか? 実録・40歳からの仕事選び直し
  • 多田 文明
  • アスキー新書
  • 2009

「それは、うつ病ではありません!」



精神科医である著者は、精神病についての超有名サイトの管理者でもある。本書は、そのサイトに寄せられた事例を軸に、著者のコメントを付記するスタイルをとっている。その意味で、本書の内容は保健同人社の「患者・家族を支えた実例集」シリーズと大変よく似ている。どういう傾向の本か知りたければ、まずサイトに目を通すことを勧める。

本書は前著「擬態うつ病」の続編という位置づけである。淡々と擬態うつ病の存在を指摘した前著と異なり、今回はより積極的に、擬態うつ病と本物のうつ病との違いを際立たせる努力をしている。そのために「擬態」という難解な用語を避け、新たに「気分障害」という用語を使うことを提唱している。

「気分障害」の事例を集めた類書は見当たらないため、本書の社会的価値は極めて高い。決してマスコミには出ないが、うつ病を猛々しく自称する人間の処遇に困る集団は非常に多いはずである。今や社会問題とさえ言えると思う。そういう人たちの多くが本書により救われることだろう。精神科医としての良心と、社会人としての使命感のようなものが行間の各所に感じられる好著である。

基本的に読むに値する本であるが、文章のスタイルについては、他のレビューにもある通り、成功しているとは言いがたい。著者の真骨頂は、時に断定的ですらある歯切れの良い表現にあると思う。その本来の文体を捨てててしまったため、右投げの投手が左手で投げているかのような据わりの悪さを感じた。この点において星ひとつ減ずる。

★★★★☆ それは、うつ病ではありません
  • 林公一
  • 宝島社新書
  • 2009